第2章 夏

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 そんな朝練を始めて3週間くらいたったある日、俺はあべっちに進路指導室へと呼び出された。  担任でもない先生からの呼び出しに驚いて行ってみると、そこに座っていたあべっちは険しい顔で顎を撫でていた。 「あのな、弓道場に朝早くから女子と二人きりで籠っている奴がいるって噂を聞いたんだ」 「え……」 「お前で間違いないよな?」 「……はい」  嘘をついて否定するほどの知恵は回らなかった。どうせ五十嵐先輩にも断っているのだから、下手に取り繕ってもすぐバレる。 「そっか……ま、裕太のことだから女子と二人きりでも妙な真似はしてないとは分かってるけどな」  あべっちは俺に対する信頼を滲ませてくれたけど、だからと言ってこのまま放置もできないみたいだった。 「李下に冠を正さずって言うだろ。疑われる真似はしないほうがいい。お前もそういうの嫌だろ?」 「すみません」 「五十嵐に聞いてみたら、お前が朝練やってる事は聞いているけど、坂元がいる事までは知らないと言っていたぞ」 「……それは俺がちゃんと伝えていませんでした」  正確に言えば、わざと伝えなかった。だって邪魔されたくなかったから。  あべっちはその辺の感情まで読んだのか、唇を強くかんだ。 「うーん……朝練をやめろとは言わない。ただやっぱり弓道場に毎朝二人きりってのはまずいな。他にも誰か誘えよ」 「はい」  俺は項垂れたまま進路指導室を出た。  ……一体誰があべっちに余計なことを吹き込んだのか。  この時までは噂を立てた奴の事なんて気になってなかったけれど、その直後、進路指導室の前に佇んでいた長身のイケメンと目が合ってピンと来た。 「林……」 「これに懲りて、あんまり栞に近づきすぎんなよ」  まるで俺があべっちに何の話をされていたのかを知っているような口ぶり。しかも栞って呼び捨てだし。  俺は唇がわななくのを感じた。 「お前の仕業かよ」 「朝練だけなら見逃してやったんだけどな。お前、栞の眼鏡まで外させただろ」 「それの何が悪ぃんだよ」  食って掛かる俺を、林は不快気に睨みつけてきた。 「あれは男避けなんだよ。眼鏡が無いとお前みたいのがぽこぽこ近寄ってきて面倒なだけなのにさ。余計な事してくれんなよ」 「お前はそうやって他の男を遠ざけといて、栞ちゃんを自分だけのものにしようって肚なんだな」 「あー残念。そういう単純な話じゃねぇんだよな」  林が唇を歪めて笑うからムカついた。  同じ中学だったからって、どうしてここまで偉そうに語れるんだよ。 「栞はお前みたいな単細胞の手に負えるような女じゃねぇからな」 「な……!」 「ある意味魔性の女。妙な気を起こす前に諦めた方が身のためだぜ」  額にかかる長めの髪をキザったらしくかき上げた林は、俺をその場に残して行ってしまった。  ……くそっ。何様なんだよ、あいつ!  俺は床を強く蹴り飛ばしたけど、だからといってこの場でできることは何も無かった。  林の妨害のせいで二人きりの朝練が無理になったのは、どうしようもない事実。  仕方ないから翌日からは昴流を誘ってみた。マユにも声をかけたけど、早起きなんてヤダ、とあっさり拒絶されてしまったのだ。 「やっぱり俺がいないとダメなんだな、お前は」  初日からハイテンションで現れた昴流の顔を見ていたら、無性にやる気がなくなってくる。 「はいはい、来てくれてありがとな」 「なんだよ。もうちょっと嬉しそうな顔をしろよ」  できるか、そんなもん。  もうちょっと空気読めよ。 「なぁ明後日、ベイスターズの試合観に行こうぜ」  ……あぁもう! こいつ、俺が弓を引いて一番集中している時に話しかけて来るからマジうざい。 「行かねぇし」  矢を放ったが大きく右に反れた。  そうだよな、そりゃそうだよな! 「いいじゃんか、観に行くぐらい」 「お前、俺が野球やらねぇの知ってて、なんでそんなもん誘えるんだよ」 「別にマウンドに立てとは言ってねぇだろ。観るだけだって」 「観てどーすんだよ」 「野球の面白さを思い出す」 「……やっぱり俺は、野球ネタでお前と勝負してたのか?」 「それはお前が思い出すまで、絶対言ってやらねぇ」 「はいはい」 「だから思い出すように、観に行こうぜ」 「明後日はうちの手伝いする約束してるから無理」  俺はもう一度矢を放ったけど、的から快音は聞かれず。  昴流め、マジむかつく。 「家の手伝い?」 「古いカルテを運び出すとかで人手がいるって言われてて」 「あぁ、あのボロい病院の」 「ボロいとか言うなよ」  俺の祖父の代からやってる病院だから、建物は確かに薄汚くなっている。そろそろ建て替えの時期なんだろうけど、そんな金もないとか前に父さんたちが言っていたし。 「なんかさ、早起きしたから腹減るな」  昴流がぼやきくと、俺は瞬間的にその頭をはたいてしまった。 「痛っえな。何すんだよ」 「少しは集中しろよ」 「叩くことねぇだろ」 「お前に食わせるもんはねぇからな!」  心が狭いのは分かってる。でもあのおにぎりは俺のために栞ちゃんが作ってくれたもの。昴流になんて食べさせたくない。  俺たちがぎゃあぎゃあやってる隣では、栞ちゃんが黙々と弓を引いていた。  彼女は会話に割り込んでくるようなことをしないから、その口数は極端に減っていて……あぁもう、やっぱり腹立つ!
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