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立共学院は2期制を導入しているから、夏休み前に期末試験が無い。試験は休み明けだ。
夏休みは嬉しい。学校の授業がなくて部活だけがある。つまり栞ちゃんは林とは会わずに、俺と毎日一緒にいるってことだ。
でも彼女は初日から部活に参加できなかった。
「私たち、7月中は一日中補習なんだよ」
みんなに挨拶だけすると、彼女は教室へ行ってしまった。立共では中高六年分の勉強を高二までの五年間で行う。高三で受験勉強に専念するためだ。中学から入っている俺たちはまだいいけど、編入組は高一の一年間で約二年分を勉強をすることになるから超駆け足で授業が進み、必然的に夏休みの補習でフォローすることになる。
「補習か……じゃあ、昴流は当然来られないんだな」
「ま、クラスの9割が補習だからね」
残念そうな口調ながら、何故かマユだけは弓道場で弓を引いている。
「お前は補習ねぇの?」
「勉強のせいで部活の時間減らされたら嫌だもん。猛勉強したわよ」
「……マジ弓バカ」
それでも8月になったら合宿がある。勝世学園とは交流戦も予定しているし、と期待していたけど、季節外れの台風が日本列島を直撃して全てお流れになった。
盆の間は学校も休みだし、ふと気づけば8月も残り僅かに。
……くそぅ、こんな夏休みのはずじゃなかったんだけどな。
ぼやいていたある日、D組が江ノ島の海岸でクラス会をやることになったと聞いた。可愛い水着を自慢したいヒラメの提案なのだとか。
家が近いんだからユータも来いよ、と昴流に誘われたが、D組の集まりにC組の俺が顔を出す訳にもいかない。
「一人くらい混ざっても分かんねぇって」
「夏休みの最終日だし、日曜だから部活も無いし。いいじゃん、暇なんでしょ」
「何気ない顔して自転車で通りかかれば?」
マユも栞ちゃんも勧めてくれたけど……うーん。でも林と顔合わせるのはなぁ。
でも当日の朝、布団の中で俺が朝寝を楽しんでいたら、昴流から電話がかかってきた。
「しおりんがまだ来てねぇんだけど、お前知らね?」
「知らねぇぞ、そんなの」
「そっか。なんか電話もつながらなくてさ」
つながらない? それは嫌な予感しかしない話だ。
「……他の奴はみんな来たのか?」
「あとは林かな。こいつも遅刻らしいんだけどさ」
俺は速攻で電話を切った。
……くそっ、二人でどこ行ったんだよ!
腹立ちまぎれに机を蹴っ飛ばして、その痛みで一人で唸る羽目に。
あぁ、もう……何やってんだ、俺!
その時またスマホが鳴った。飛びつくように取ったら、今度は公衆電話からの着信だった。
今どき公衆電話なんて、と不思議に思いつつとにかく電話に出る。
「もしもし?」
「裕太君? いきなりごめんね。坂元です。マユちゃんか昴流君に連絡して欲しいんだけどいい?」
意味が分からない。どうして俺に電話? しかも公衆電話から?
「江ノ島まで、今日は、ちょっと行けそうにないの。ごめんねって伝えておいて……」
「おい、待てよ。何があったんだよ」
「……」
「今、誰と一緒にいる?」
「え?」
「どこにいるんだよ?!」
「ごめん……ここ、うるさいから……この電話だと聞こえにくくて」
「だから、どこっ?!」
俺の問いに答えるように、電話口の向こうからは京浜東北線のホームのアナウンスが聞こえてくる。
俺は電車オタクじゃないからそれで駅名が分かったわけじゃないけど、彼女の最寄り駅は知っている。
「大森だな?! 俺、今から行くから。そのまま待っとけよ!!」
彼女の返事も聞かずに電話を切った。それから大急ぎで着替え、スマホと財布一つを掴んだきりで家を飛び出したのだった。
稲村ケ崎から江ノ電と横須賀線と京浜東北線を乗り継いで、大森駅まで1時間20分。
そんなにかかるんじゃもう帰ってしまったかもしれない、と不安にもなったけど、栞ちゃんは大森駅の改札口を出てすぐの所で待っていてくれた。
デニムの半ズボンに薄手の白いパーカー、それに麦わら帽子。海へ行くつもりだったと一目でわかる格好だ。
駆けつけた俺の顔を見た彼女は、笑っていいのかいけないのかを決めかねたようで、眉を額の中央へ寄せていた。
「やだ……本当に来るって言ってたんだ」
「栞ちゃんこそ……どうして、俺に電話なんて、するんだよ」
ホームを走り階段も全力で駆け上って来たから、さすがに息が切れる。
「携帯が壊れちゃったの。連絡先が分かったのは裕太君だけだったから」
彼女は財布から取り出したメモを見せてくれた。
それは入部してきた日に俺が書いて渡したメールアドレスと電話番号。
なくさないように財布に入れて、そのままになっていたみたいだ。
俺に電話があった謎はすぐに解けた。けれどまだ分からないことがある……っつうか、その謎を解くために俺はわざわざここまで来たんだ。
「だからってさ……おかしいだろ。携帯が壊れたくらいで、泣くわけ無いじゃんか」
俺の指摘に彼女は、はっと息を呑み、表情を曇らせた。
そうだよ。あの時、電話口の向こうから漏れて来た、栞ちゃんのしゃくりあげる声。あんなものを聞いたら、いくら俺が彼氏じゃなくても、放っておけるわけねぇし。
「何があったんだよ」
「……」
「俺に言えねぇ話なのかよ」
「……」
「……そこで泣くなよ」
俯いたまま両手で顔を覆われてしまったものだから、俺は苛々として自分の髪の毛を掻きむしった。
こっちが泣きたい。
責めてるわけじゃないのに、どうしてこんな言い方しかできないんだろ。
「……ごめんね……裕太君の顔、見てたら、なんか……勝手に……」
すすり泣きながら、ぼそりぼそりと言葉を紡ぐ彼女をどう扱っていいか分からず、ただ見守るだけの俺。
通り過ぎていく人がじろじろとこちらを見ていく。
最悪だ。
俺は一体何をしにここまで来たんだよ。
「……俺、女の子の泣いているのをどうしていいかなんて、全然分かんねぇからさ」
「うん……」
「とりあえず、泣き止んでほしいんだけどな」
「……そうだね」
俺の情けないお願いを、彼女は聞き入れてくれた。
なんとか涙を止めようと、大きく息を吸っている。
俺もここでティッシュかハンカチでも出せれば良かったけど、とにかく急いで家を飛び出してきたから何も持ち合わせがない。
本当に、ここまでの俺は全くの役立たずだ。栞ちゃんはそんな俺を当てにせず、自分のカバンから取り出したティッシュペーパーで鼻をかんで、なんとか涙を止めてくれた。
まだ目は赤いけど、俺は待ちきれないまま言った。
「じゃあ、海に行こう」
「え?」
「その格好で、海に行かないままじゃ終われねぇだろ。別にみんなのいる江ノ島じゃなくてもいいじゃん。昴流にはさっき、栞ちゃんは急用で行けないって連絡入れといたからそっちは大丈夫。だから……油壷とか、どう?」
「油壷……?」
「三浦一族の新井城があった場所なんだけど。行く?」
俺の誘いにしばらくの間、狐につままれたような顔をしていた栞ちゃんは、やがて痛々しい赤い目のまま笑ってくれた。
「裕太君って、私のツボをがっちり押さえて来るよね」
それは今の俺への、最大の褒め言葉だった。
油壷は三浦半島の先っぽの方、相模湾に面した岩だらけの海岸だ。
横浜で京急に乗り換えて終点の三崎口まで。油壷には水族館があるから駅からのバスは結構たくさん出ていて、乗り継ぎもスムーズだった。
一緒にバスに乗ってきた人のほとんどは水族館へ向かったけど、俺たちはもちろん城の跡地を目指し、海に突き出た小高い崖を登る。崖の上からは、小網代湾という小さな入り江が見えた。
「ここだったんだ。湾内の水が血で真っ赤に染まったっていうのは……」
入り江を見下ろし、栞ちゃんは感慨深げに呟いた。
俺の解説が無くても、彼女は三浦氏と新井城の事をよく知っていた。和田塚でも話に出てきた三浦氏は、室町時代には相模国の東半分を治めていた。その居城である新井城は堅い守りで知られており、北条早雲に攻められたものの3年もの長期間にわたり籠城した。
長く城に籠れば、裏切りや内通が出るのが普通だ。四面楚歌じゃないけど、周りが全部敵となれば気が狂ってもおかしくはない。それがいよいよ食料が無くなって明日には城を開いて討ち死にするしかない、という話になった日、城主に『落ちたい者は落ちよ』と言われても、誰一人として脱落しなかった。三浦氏の凄まじい結束力が伺える。
「こんなところ、よく知ってたね」
「前にちょっと調べたことがあってさ」
実は歴史好きな栞ちゃんと出かけるなら、と彼女が興味を持ちそうな場所を、以前からピックアップしていた。俺の先見の明、ぜひとも褒めて欲しい。
それから磯に降りて、彼女の持ってきた弁当を二人で食べて遅めの昼ご飯にし、その後は岩場でヤドカリを追いかけたり綺麗な貝殻を探したり、と磯遊びをして過ごした。
特別な事は何もしてないけど、それでも俺は楽しかったし、彼女も喜んでいたから来て良かったな、なんてしみじみ思って。
帰りは京浜急行の快速特急に乗り、行きと同じルートで帰宅することになった。
夏休み最後の日曜日だけあって行楽帰りのお客さんで車内は混雑している。始発だから席には座れたけど、すぐ隣に座ったお兄さんのイヤホンから大量の音楽が漏れ出ているのには参った。
そしていつの間にか栞ちゃんは青い顔をしていたのだ。
「大丈夫か?」
「……うん、ちょっと酔ったかも」
京急の快速特急は揺れが激しいことで有名だ。俺は横浜駅に着くと、彼女を一旦ホームのベンチに座らせた。
「ごめんね、裕太君は新逗子で乗り換えた方が早かったのに、ここまで付き合わせちゃって」
「そんなのいいよ。元々家まで送っていくつもりだったし」
「いいよ、そこまでしてもらわなくても」
栞ちゃんは小さく笑った。
「心配してくれて、ありがと」
「もう大丈夫か?」
「うん。おかげさまで」
でも顔色は悪いまま。今日一日、表面上は楽しそうにしてたけど、内心では今朝の涙をまだ引きずっているのかもしれない。
京急の横浜駅は人の往来が激しいだけに殺伐としている。急行の発射を知らせるメロディが鳴りやまない中「白線の後ろにお下がりください!」と車掌さんは怒鳴っていて。京急の隣にはJRも3路線が並んでいる。
栞ちゃんは眉間に皺を寄せ、じっと目を閉じたままだった。
俺はその隣に腰を下ろすと、俯きがちにぼそりと言った。
「その……あんまり気にすんなよ、あんな奴の事」
「え……?」
「ちょっと見た目がいいからって調子に乗ってるだけで、全然大した奴じゃねぇし」
「……なんで裕太君が知ってるの?」
彼女は顔をこわばらせ、怯えたような目で俺をじっと見つめて来た。
……知ってる?
俺は首をひねった。おかしい。誰か別の奴の事を言ってるのか?
「え? 今朝は林と喧嘩でもしたんじゃねぇの?」
「そんなことしてないよ」
大きく首を横に振った彼女は、きょとんとした表情になった。
「でも、あいつも海に来てないって昴流が」
「そうなの? 林君は京急の大森海岸から来てるから、今日は会ってなくて分かんないけど」
「マジで?」
「マジで」
泣いてた原因は林じゃなかったのか。じゃあ何のせいで泣いてたんだよっていう疑問は出てくるけど、でもちょっと安心した。
そうか、林じゃないのか……。
「もしかして、林君との仲を疑われてたりする?」
「違うのかよ。だって修養会でもチャペルに二人で……」
俺が語尾を濁らせつつ指摘すると、栞ちゃんは見られていたことに驚きつつ、あれは説法の感想文を貸してくれって頼まれてただけだよ、と教えてくれた。
「借りた感想文を元に書いた感想文が学年報にのるなんて、先生も見る目無いよね」
「……」
「林君は同じ中学なだけだよ。いい人なのを甘えて、私は迷惑かけてばっかりだけど」
いい人っていう表現は微妙だ。
恋愛対象じゃないってことか? でも林の方は俺を敵視してきて、栞ちゃんも呼び捨てにして……。
ダメだ、意味分かんねぇよ。共学じゃあれくらい普通って言われたら、俺にはそういうもんかって頷くしかねぇし。
でも林がいい人ポジションなら、じゃあ俺は栞ちゃんにとってどういう扱いなんだろう。
趣味に付き合ってくれるだけのオトモダチじゃないって……言ってくれるのか?
「裕太君、あの……もう大分楽になったから、そろそろ帰るね」
「どこが楽になったんだよ。顔色悪いじゃん。やっぱり家まで送るって」
「でも明日から学校だし、裕太君も早く帰りたいでしょ」
俺に気遣って立ち上がろうとする栞ちゃんの腕を掴んで引き留めた。
「そんなこと……ない」
「え?」
青い顔をした栞ちゃんはまっすぐ俺の目を覗き込んでくれる。俺の心のうちまで探るような、濁りの無い澄んだ瞳。
胸の鼓動が、辺りの騒がしさ以上に鳴り響いてる。
「俺は栞ちゃんとずっと一緒にいたいんだ」
俺の決死の思いの言葉と、頭上で鳴り響く電車の発車を告げるメロディ。そして目を見開いたまま否とも応とも言わない栞ちゃんの顔。
「あ……」
今のはどっちだ? もしかして発車のメロディが邪魔で聞こえなかったとか?
こんな時に限ってメロディに続いて隣りのJRからは大きなベルの音まで響いてくるのだ。それが終わるまで待っている妙な間に栞ちゃんはおろおろし始めて俺の手を振りほどこうとしたけど、そんなもの離すわけなかった。
でもそんなときに限って、来なくていい奴がやってくるのだ。
「栞?!」
林だった。階段を上がってホームへやってきた彼は一目散に駆け寄ってくると、俺の手を振りほどいた。
林だけじゃない。その後ろにはヒラメなど、D組の男女四人も一緒で、全員が海水浴帰りらしい格好をしている。
「どうしてお前が栞と一緒にいるんだよ?!」
「ち、違うの。私がちょっと……その、いろいろあって凹んでたから、気晴らしに連れ出してくれただけで」
俺の胸ぐらを掴みかねない林の剣幕に驚きながらも、栞ちゃんは懸命に説明してくれる。
一方の俺はといえば、予想もしていなかったこの状況についていけなくて、言葉も出ない。
林はしばらくの間、そのまま噛み付きそうな目で俺を睨み付けていたけど、そのうち、ぷいと視線をそらした。そして栞ちゃんに対しぶっきらぼうな口調で尋ねる。
「お前もさ、どうして携帯の電源まで切ったんだよ。心配するだろ」
「ごめん。大森駅で携帯が、その……壊れちゃって……」
言い辛そうな栞ちゃんの言葉に、林はすうっと目を細めた。
「ちょっと来い。こんなとこじゃ辛いだけだろ。あぁ、お前らは先に帰ってろよ」
ヒラメたちにそう言い残すと、林は栞ちゃんの腕を掴み、ホームからの階段を下りて行く。彼女はそれに逆らわなかったけど、最後に思い出したかのように「裕太君!」と振り返った。
「あの……今日はありがとね」
取って付けたようなぎこちない笑顔で手を振ってくれたものの、林に睨まれてそのまま姿を消してしまう。
「……なぁに、あれ。二股ってこと? おとなしそうな顔して悪ど過ぎない、あの子?」
ホームに残されたヒラメが汚いものでも見るような顔で呟いていた。
次の電車の到着を告げるメロディが、また頭の上で鳴り始める。俺はその軽やかな音色を呆然と聞くことしかできなかった。
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