第1章 春

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 新入部員らを迎えた俺たちは弓道場で輪になって座り、まずは全員で軽く自己紹介をした。  顧問のあべっちも挨拶したけど、高一の新入部員たちは既にその顔を知っていた。あべっちは編入組の所属する一年D組の担任だからだ。 「じゃあみんなの連絡先を教えてくれるか。あ、すみません。先生はちょっとだけ後ろ向いててくださいね」  校内でのスマホの使用は禁止されている。  心の広いあべっちが後ろを向いてくれている間に、五十嵐先輩は自分のスマホを取り出した。こういう時はスマホをお互いにフリフリしてアドレスを交換するのが手っ取り早い。 「どうしても俺に番号教えたくないって奴は言えよ。他の連絡方法考えるからさ」  女子がいるからって先輩が妙な気遣いをしたら、なんと本当に手が上った。瓶底眼鏡の坂元さんだ。 「すみません。私まだガラケーで」  なんだ、そういう事か。 「じゃあ、俺がメールで連絡するようにします」  俺はメモ帳を破って、自分のEメールアドレスと電話番号を書いて渡した。 「あとで空メールでも送って」 「ありがとう」  それから先輩は今年度の活動予定やら、新入生らが弓を引くに至るまでの流れやらを説明してくれた。  その中で、どうやら4月いっぱいは袴を着られないと知った中一の田中さんはがっかりした声を上げた。 「そっか……最初は体操着なんですね」 「袴が届くまではちょっと待ってな。はい、これ注文書。丸を付けているのが最初に買った方がいいもの。後で現物は見せるから、お家の人とも相談しといで」  先輩はみんなに袴の注文書を配った。弓や矢は部内で共用だからよほどでなければ買う必要はないけど(個人持ちしてる伊澤さんがおかしい)、身につけるものは全て自前だから初期費用は少々かかる。まぁ楽器をやるよりはマシってくらいだけど。 「最初は体操着で十分だぞ。弓を引くにはある程度の力がいるから、まずは筋トレやらのトレーニング必要だしな。まぁ着慣れておくことも大切だから、実際には弓を引くより前に袴を着ることになるけどさ」 「じゃあ、今日は弓を撃てないんですか?」  どうやら説明を理解できていなかったらしい田中さんの言葉に、先輩は苦笑いを浮かべた。 「だから、いきなりできるような代物じゃないから、まずは基礎トレーニングから始めような。それと、撃つじゃなくて、弓は引くとか、矢を射るって言うんだ」 「……はぁ」 「先輩への返事は『はい』だぞ」  気の抜けた返事を聞いた俺は、思わず横から口を突っ込んだ。大丈夫か、この子? 「じゃあ、新入部員のみんなは体操着に着替えてきてくれ。お前らはその間にランニング」 「はい」  すでに袴に着替えている中二や中三の後輩たちが頷き、新入部員らも体操着を持って立ち上がった。伊澤さんが五十嵐先輩に近づく。 「私は袴でもいいですか?」 「そりゃもちろん。持っているならぜひ」 「いいなぁ、マユ先輩だけ」 「うさ子もすぐに着られるようになるよ。しおりんも行こ」  僅かな間に互いをあだ名で呼ぶほど親しくなっていた伊澤さんは、坂元さんも誘って体育館脇の女子更衣室へ行ってしまった。男子二人も同じように弓道場を出て行こうとしたのを俺が引き留める。 「お前らはここでいいだろ。みんなそうしてるし」  俺は弓道場の一角にある部室兼用具置き場を指さした。というか去年までは男子しかいなかったから俺たちには部室以外で着替える習慣がない。  それに女子の入学に合わせて無理やりに増設した男子更衣室は校舎の端っこにあって、とても不便だ。  俺は部室の戸を開けて中へ案内した。天井からはゆがけという革の手袋が天井からぶら下がっていたから、その異様な光景にはびっくりされた。これは湿気ですぐにカビてしまう代物だから陰干しが必須なのだ。  その他の弓具も壁際に積んであって狭苦しいけど、ちゃんと個人用のロッカーも備え付けてある。  着替えている二人に俺が部室の使い方ルールなんかも説明していたら、徳井は不満げに鼻を鳴らしてきた。 「さっきからユータは偉そうだな」 「そりゃ一応、副主将だから」  高二が五十嵐先輩一人きりだから、高一の俺が副主将をやっている。  昴流はむっとした顔で言った。 「ずっと弓道やってんのか? 野球はどうしたんだよ」 「野球野球ってさっきからうるせぇな。お前こそなんで野球部入らなかったんだよ」 「お前がいないからだよ」 「もしかして、俺がいるから弓道部に入ったのか?」 「あったりまえだろ。お前との決着がまだついてないんだから。部活紹介でユータが弓道部に出てくるからどれだけびっくりしたか」 「決着? 何か勝負してたっけ?」 「忘れたのかぁ?!」  俺がぽかんとした顔で聞き返すと、徳井は悲鳴に近い叫び声を上げた。 「あれだけ固く誓った男の約束を忘れるなんて! どーいう神経してんだよ!」 「いやだって、お前の事も忘れてたくらいだし……俺たちってそもそも、そんなに仲良かったっけ?」 「そんな言い方するなよ……」  こいつ、目に見えて萎れるからちょっと面白い。 「悪ぃ。でも塾でもクラスは違ったし、あとは少年野球でお前のチームとちょこっと対戦したくらいで……」  でも俺は小五の夏で野球をやめた。徳井は六年まで続けていたみたいだったけど、野球での接点なんてほとんど無かったはずだ。  俺が徳井の事で覚えているのは、模試の後になると俺のクラスまで押しかけてきては点数を見比べ「くそぅ、次こそ抜かしてやる!」と喚いていたことくらい。 「勝負ってなんだ? 野球? いや、もしかしてバレンタインのチョコの数とか?」 「そんなもんで勝負するか」 「お前がやりそうって言ったらそんなんだろ」  俺たちがたわいもない話をしていたら、着替え終わった宮本が口を挟んできた。 「先輩方は知り合いなんですか?」 「永遠のライバルだ」 「そんな大層な仲じゃねぇよ。小学校の時の塾が一緒だっただけ。宮本はどこの塾だったんだ?」 「日応ゼミです」 「お、一緒だ。じゃあ俺たちの後輩だな。何校だよ」 「上永谷校です」 「俺たちは鎌倉校だったな」  昴流も口を挟んできたけど、今の俺は期待の新人とだけ話をしたい。 「なぁ、宮本はどうして弓道部に入ってくれたんだ?」 「昨年の立共の文化祭へ来た時に、弓道部の先輩方の模範演技を見て、感動したんです」 「あぁ、見に来てくれたんだ」 「ぴんと背筋が伸びて、すごく格好良くて。男子校の雰囲気にも憧れました。みんな明るくて仲が良くて気持ちのいい人ばかりで。だから、こんなこと言ったらいけないのかもしれませんが、共学になったのはちょっと残念なくらいで……」  俺はこの時点でもう胸がいっぱいだった。言葉半ばながら、宮本の肩をぎゅっと抱きしめる。 「お前、ホントいい奴だな。お前こそ、真の立共男子だ」 「なんだよ、それ?」  突然抱きしめられてびっくりしている宮本を俺から引き剥がしながら、徳井が尋ねた。 「創立147年の歴史と伝統を積み重ねて来た男の熱い魂ってのがあるんだよ。去年までは立共だってこんなじゃなかったのに、それがみんな女子の事で浮ついて、俺たちの作ってきた男子校ならではのいい雰囲気が壊れて、もううんざりなんだ。女子なんかさえ入って来なけりゃ……」 「聞き捨てならないわね、それ」  白の胴着と黒の袴を身につけた伊澤さんがいきなり部室のドアを開け放った。部室の壁は薄いから、声が外にまで漏れていたらしい。を  彼女は腕組みをして俺の前に立ちはだかった。女子のくせにその立ち姿、やたらと貫禄がある。 「女子なんかとは何よ。裏でこそこそと女の腐ったのみたいに陰口叩いて。あんたの方がよっぽどみみっちいじゃない」 「な……っ」 「言いたいことがあるなら、これで言いなさいよ。男なんでしょ」  伊澤さんは持っていた弓袋をぽんぽんと叩いて、挑発的な笑みを浮かべた。  なんだよ。そこまで言われりゃ、俺だって引き下がれるわけねぇし。 「勝負しようってのか。女だからって手加減しねぇからな」 「上等。そうこなくっちゃ」  伊澤さんは余裕たっぷりに微笑み、それから俺たちは五十嵐先輩に頼み込んでみんなの前で各々8本ずつの矢を交互に射って勝負することになった。  俺は気合十分。これでもこの弓道場で三年間、弓を引いて来たんだ。地の利は俺にある。だからいくら伊澤さんが経験者だからって、そう簡単には負けないつもりだった。  なのに結果は俺の完敗。よくもまぁ、あんなに涼しい顔で28mも先の的にひょいひょい中てられるものだ。焦れば焦るほどこっちは外すし、みっともないったらありゃしねぇ。  傍らで見ていたうさぎ娘が「マユ先輩すごぉい」と大はしゃぎし、後輩たちはもちろん、五十嵐先輩やあべっちまでその力量には舌を巻く始末。 「マジすげぇ……」  伊澤さんがダメ押しの最後の1本まで、的の中央へばっちり中ててきたのを見た瞬間、俺は降参の体で床の上へひっくり返った。  彼女は矢を放った後の残身の構えをゆっくりと解くと、足元に転がっている俺を見下ろして言った。 「私、神奈川の中学大会で優勝してるから」  特に気負ったわけでもない、落ち着いた声での宣言。そんな伊澤さんをこうやって床から見上げると、なんだか山のように大きく見えた。 「優勝……そりゃ強いわけだ」 「国大の付属小には弓道部があったから、キャリアだけなら、多分みんなより長いんだよね」  そういえばさっきの自己紹介でも、鎌倉国大付属中の出身だと言っていた。  でもこの強さ、長くやってるだけの問題じゃない気がする。格が違うって感じ。  圧倒的な強さを前にしてぐうの音も出ない俺に苦笑しながら、伊澤さんは手を差し伸べて立ち上がらせてくれた。見た目の男子感とは違い、意外と柔らかい手だったからちょっとドキっとした。  その後は全員で軽くストレッチをやってから、みんなはすぐに弓を引き始め、俺は新入部員を連れて学校の周りをランニングしてきた。  小高い丘の上に建っているだけに、学校の周囲は坂道だらけで走りづらい。それもあってか、うさ子はたった2周でバテバテだった。 「弓を撃つ……じゃなかった、引くだけなのに、なんで走る必要があるんですか?」 「下半身を鍛えないと、体の軸がぶれて強い弓を引けねぇんだよ。宮本も大丈夫か?」 「……はぃ」  中一の二人は弓道場の前へ戻ってきて、そのまま動けなくなってしまった。高一の二人も肩で荒い息をしているが、こちらは初めてのコースだから体力配分ができていなかっただけで、すぐに慣れそうだ。伊澤さんだけが涼しい顔をしていて逆にコワい。  今日はもう時間が無くて、ここまででお開きになった。みんなが片付けをする間、俺は五十嵐先輩に部室へ呼び出された。 「あいつらどんな具合だった?」 「中一は全然体力無いですね。でも徳井は元々野球をやってたし、坂元さんもまぁぼちぼちって感じかなぁ」 「そっか。じゃ、あいつらの教育係はこのまま裕太に任せるぞ」 「俺でいいんですか?」 「うちの部じゃお前が一番、真っ直ぐでいい弓を引く。教えるならお前がいいだろ」 「先輩……」  五十嵐先輩の言葉は胸にじんと染みた。  何せ先程の伊澤さんとの勝負でみっともないところを見せてしまい、俺の気持ちは地の底まで落ち込んでいたのだ。  女子にデレデレするような一面もあるけど、こうやって俺の心をすくい上げてくれるなんて、やっぱり五十嵐先輩は素晴らしい先輩だ。 「精いっぱい頑張ります!」  俺は拳を握りしめて、固く誓ったのだった。
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