第1章 春

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 早起きは三文の得って言うけど、その甲斐が無かった時の早起きってのは、むしろ損した気分だ。  現在時刻は早朝6時10分。俺は三の鳥居をくぐり、若宮大路をとぼとぼと歩いていた。  全身にのしかかるのはものすごい脱力感。せっかくここまで来たのに、流鏑馬を見られなかったのだ。なんでも、馬が厩舎から逃げ出して捕まえるのに手間取ってるんだとか。ったく、そんなので昼からの本番は間に合うのかよ。  更に腹の立つことに徳井は寝坊だとかで最初から来もしなかったし。 「あぁ、眠い」  朝が苦手な伊澤さんは、さっきからあくびが止まらないみたいだ。俺も江ノ電が始発だったから超眠い。くっそぅ、昴流の奴め。明日学校で会ったらボコボコにしてやるからな。  でもそんなテンションの低い俺たちと違い、坂元さんだけはやたらとご機嫌だった。 「だって、こうやって段葛(だんかずら)を歩けたから」  理由を聞いたら、そんなことを言っていた。  段葛とは若宮大路の真ん中にある一段高くなった歩道のこと。桜並木は有名だけど、今は見事なまでの葉桜になっているから、特に目を引くものは無い。 「坂元さんってここが何なのか、知ってんの?」  弾んだ足取りでずんずん先へ行ってしまう坂元さんに尋ねたものの、彼女は自分の世界に入っちゃってるのか、振り返りもしなかった。  代わりに俺の隣を歩いていた伊澤さんが「何なの? ここってそんな有名なとこだっけ?」と聞いてきた。 「源頼朝が妻の政子の安産祈願に、鶴岡八幡宮の参道として作らせたんだ。御家人たちがみんなで石を運んで作って……結果的に政子は無事に世継ぎの長男を産んだから、ここも若宮大路って呼ばれるようになってさ」 「へぇ」  自分で聞いておきながら伊澤さんは気のない相槌。相当眠いんだろうな。  そう考えると坂元さんのテンションはおかしい。彼女って確か今日はJR大森駅を4時21分発の電車で出たとか言ってなかったか?  段葛は二の鳥居までで終わりだ。本当はこの先には一の鳥居があって、若宮大路は由比ガ浜の海岸までまっすぐ続いているから、坂元さんは興味深げにその先を見つめていたけど、鎌倉駅は二の鳥居のところにあるからこれ以上歩く必要は全くない。  なんだ、こんなに段葛で喜んでくれるのなら、行きも小町通ではなくてこっちを通ってあげればよかった。    俺たちが鎌倉駅まで戻ってきた時、横須賀線の下り列車がホームに入って来るのが見えた。それと同時に伊澤さんが慌てて走り出す。 「電車来ちゃった。じゃあね、また明日!」  いつまでも友達と別れられないという女子らしいぐだぐだは一切無し。  おいおい、マジかよ。  あまりの淡泊さに驚く俺たちの目の前で、彼女は改札の向こうへとあっという間に消えてしまった。階段も三段飛ばしで駆け上がっている。 「……あいつ、男子より男子すぎるな」  俺が苦笑すると、坂元さんも相槌代わりに微笑んでくれた。  電車の去っていく音が頭上で響く中「じゃあ、俺も帰るわ」と俺はJRの改札口の向こうにある、江ノ電乗り場を指さした。 「上山君は江ノ電なの?」 「俺は稲村ケ崎なんだ」 「稲村ケ崎!」  坂元さんはやっぱり変な子だった。その駅名に、突然目を輝かせて食いついて来たのだから。 「稲村ケ崎ってこの近くなんだ!」 「え? サーフィンとかやるわけ?」  稲村ケ崎は良い波が来るサーフィンの名所として有名だ。俺たちが生まれる前には映画にもなったくらい。  しかし彼女にとっての稲村ケ崎は、サーフィンでも映画でも無かった。 「新田義貞が鎌倉に攻め込んだ時に通ったのが稲村ケ崎だよね」 「あぁ、そっちか」  海と山で囲まれた鎌倉に攻め入るには道が狭くて、義貞の軍勢が進めなくなった時、稲村ケ崎で神に祈りを捧げたら海の水が引いて鎌倉に入れた、という伝説のことを彼女は言っている。聖書の出エジプト記の中でモーセがやったのと同じような出来事だ。だけどモーセに比べると、新田義貞の話はそこまで有名じゃない。 「いいなぁ。稲村ケ崎かぁ……」 「……江ノ電ですぐだし、ちょっと行ってみる?」  言い訳するわけじゃないけど、これは完全に言わされたと思う。  何せ瓶底眼鏡の下で彼女の目が、絶対行きたい!、ってキラキラ光ってたもんなぁ……。 「いいの? やったぁ!」  案の定、俺の誘いに彼女は頬を赤く染めて大喜びしたのだった。  翌朝の月曜日。俺は芋洗い坂を登りながら、同じクラスの親友である山下に昨日のできごとを話していた。 「うん? じゃあ昨日はその坂元さんて子を稲村ケ崎へ案内しただけじゃ終わらなかったのか?」  山下は目を丸くしていた。 「それが感性がちょっと変わってる子で……例えばさ、稲村ケ崎の海岸から富士山とか江の島とかが綺麗に見えた瞬間なんて言う?」 「あぁ綺麗だなぁ」 「だよな。でもあの子の場合は伊勢物語なんだ」 「は?」 「時しらぬ 山は富士の()いつとてか 鹿()の子まだらに雪の降るらむ」 「なんだそりゃ?」 「富士山にまだらに雪が積もってて綺麗だなぁ、ってことだよ」 「……そりゃ確かに、変わってんな」  山下は盛大にドン引きしていた。 「ま、その句を今暗唱してるお前も十分変わってるけどな」 「インパクト強すぎて、頭に焼き付いちゃってさ」  俺は苦笑を漏らした。 「稲村ケ崎以外にも、腰越とか、和田塚とかの駅名だけでやたらと盛り上がるから、ついでにその辺も半日かけて回らされて……」 「ちょっと待てよ。腰越は分かるぜ。義経が頼朝宛に書いた腰越状は有名だもんな。でも和田塚って何だ?」 「源頼朝が死んだ後、北条氏が執権としていきなり権力を握ったわけじゃなくて、実は御家人たちの間で争いがあったんだ。その一つが和田合戦。当時、有力御家人だった和田義盛が北条義時相手に起こした反乱で、でも味方と思っていた三浦氏の裏切りとかもあって和田義盛は討ち死に、一族郎党もみんな殺されて、その戦没者を慰霊するための石碑が和田塚なんだ」 「……へぇ。お前って、そういうの好きだったんだな」  三年も一緒にいて初めて知ったぜ、と山下が引きつった顔をするから、俺は慌てて首を横に振って否定した。 「好きって程じゃないぜ。一応分かるかな、ってぐらいな。歴史小説なんかで読んだことがあるからさ。でも向こうは本物の歴女だったな。何しろ鎌倉4代将軍の名前まで知ってたんだぜ」 「4代将軍って……そんなもん覚えてても、絶対テスト出ねぇだろ」 「俺も京都の九条家の出身ってとこまでは、知ってたんだけどなぁ」 「……お前も十分オカシイよ」  学校に到着し下駄箱で靴を履き替えている間も、俺はまだ昨日の興奮が冷めやらず一人でしゃべり続けていた。 「鎌倉駅に戻って昼飯を食べた後は、俺も半分やけっぱちでさ、こうなったらとことん付き合ってやるよって、結局朝比奈の切り通しまで行ってきたんだ」  坂元さんが切り通しの実物を見たいと言うから、スマホで調べたのだ。  いくつか候補が上がってきた中で朝比奈のものが一番よく残っているというコメントがあったから、わざわざバスに乗って近くまで行き、山の中を歩いて来た。 「あんな岩を切った跡が残っているだけの場所なんて、よく行きたがるよなぁ。俺も信じられなくてさ……」 「……裕太、お前さ」  山下が頭を抱えながら俺の言葉を遮った。 「ん?」 「さっきから、喋ってる内容と声のトーンが全然合ってねぇんだけど」 「え?」  山下はやれやれ、というように肩をすくめた。 「要するにお前は、その女の子と二人きりで鎌倉を散策してめっちゃ楽しかったってことなんだな」 「そ……そんなんじゃねぇし!!」 「あーあ、なんか残念だなぁ。裕太だけはそういうチャラいマネをしないと信じてたのに。まさか4月からデートだなんてさぁ」 「違ぇって!!」  からかわれたせいで、俺は全力で否定してしまった。 「俺はただ坂元さんに付き合わされて、仕方なく歩き回っただけで。あんなの全然楽しくなんて……」 「おはよう、上山君!」 「っ!」  不意に背中を突っつかれた俺は、悲鳴も出なかった。  代わりに下駄箱前のすのこがトランポリンになったかと思うくらい、勢いよく飛び上がってしまう。  ……ヤバい、聞かれた……!  強張った顔で振り向いたら、そこに立っていた坂元さんは怒っているどころか、昨日と同じ笑顔を浮かべてくれていた。 「……あ、ごめんね」  俺がぎょっとしている理由を、山下との会話を邪魔されたせいだと勘違いしたみたいで、彼女は申し訳なげに謝ってきた。そして山下に向けて小さく会釈をすると、自分の下駄箱の方へ行ってしまったのだ。  その後姿を山下が興味深げに目で追いかける。 「ふうん……あの子なんだ」 「な……なんだよ」 「裕太ってあぁいう地味なタイプが好きだったんだな」 「だからぁ! そーいうのじゃねぇって言ってんだろ!」 「あ、後ろ」 「!」  山下に言われて、俺は反射的にびくっと後ろを振り向いた。もちろんそこには誰もいない。 「山下、てめぇ……」 「ははは。さっきのは聞かれなくて、命拾いしたな。危うく嫌われちゃうとこだったじゃん」  山下はおかしそうに笑っていて、まぁ、聞かれてなかったのはラッキーだったな、とは俺も思っていた。さっきのは完全にアウトだと思ったんだけどなぁ。 aaaae6e8-6e37-4c92-b0eb-271830d8f740
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