第1章 春

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 ゴールデンウィークが明けると、制服は夏服に衣替えした。俺たちは白シャツ、女子は白地に黒の襟がついた半袖のセーラー服に。それと同時に立共学院は旅行週間に入る。  この一週間の間に全校生徒が各地へ行くのだ。例えば高二なら京都・奈良へ、一週間を使いきっての修学旅行だ。  ところが、高一は月曜日から二泊三日で伊豆の山奥に籠るだけの地味な合宿になる。その名も修養会。宗教科の主任でもある校長先生の話を聞いたり、生徒間で聖句についてディスカッションしたりする。  新入生も加わったところで気持ちも新たに神様の教えに耳を傾けるのが目的らしいけど、俺たちは中一の時に同じことを経験してるから、その辛さは身に沁みている。行きのバスの中で『天城越え』をクラス全員で熱唱したくらいじゃテンションは上がらなかった。 「でも裕太は楽しいんだろ」  修養会1日目の夕飯の時、隣に座った山下は嫌味な口調で言ってきた。 「なんでだよ」 「だってあの眼鏡女子がいるからさ」 「だからそういうんじゃねぇんだって」 「でもチャペルでの説法の時も、裕太はずっとあの子を見てたじゃん」  山下の指摘に俺は食べかけのミニトマトを喉に詰まらせるくらいびっくりした。  マジかよ、気付かれてたのか。 「あ、あれは別に坂元さんを見てたってわけじゃ……」 「1時間半もガン見って、ヤバいだろ」 「そんなに見てねぇし。ただ、あの眼鏡のレンズ分厚いなぁって気になっただけで」  そう。いつもは彼女からの熱い視線に緊張してしまってまともに顔も見れないけど、チャペルに座った時はちょうど斜め前に彼女が座っていたから、落ち着いて眺めることができたのだ。 『本校の創立精神である、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、この言葉を君たちには今一度真剣に考えて欲しいのです。あなたの隣人とは誰ですか?』  壇上から校長先生がそんなことを喋ったのも悪かった。  愛すべき隣人と言われて、俺は咄嗟に坂元さんを思い出したからついそっちへ目が行き、それからずっと……。 「……でも、あの子ってそんなにいい子か?」  山下は不意に声を潜めて囁いてきた。 「ん?」 「俺はディスカッションで同じ班だったけど、あの子だけ話に入ってこないし、俺たちの話も聞いてそうで実は聞いてねぇし……ちょっと感じ悪いくらいだったぜ」  親友の口から否定的な意見を聞かされて俺は驚いた。 「今の裕太って女なら誰でもいいって心境なんじゃねぇの?」 「んなわけねぇだろ」  失礼な言われように、俺は大きく口を尖らせた。 「だって俺んとこの班にいた女は、姫とか呼ばれていい気になってて、マジうざかったぜ」  本名は平野芽衣香。姫というのは名字と名前の頭文字を取ってマユが名付けたあだ名らしいけど、それならヒラメでもいいじゃねぇかと俺は思っている。 「隣の席の男にもずっとべたべたしてるし、化粧濃いし。顔は可愛いかもしれねぇけど、あれはねぇよな」 「ふーん。じゃあやっぱり坂元さんは、裕太にとって特別ってことだな」 「特別なんて……」 「はいはい。じゃあそんな裕太にプレゼント」 「なんだよ、これ」 「坂元さんに渡してきてくれよ。あの子にだけ渡せてなくてさ」  手渡されたのは山下の班のディスカッションの内容をまとめたメモ用紙だった。  これがないと、坂元さんだって後でレポートを提出するときに困ってしまうはずだ。 「さっき俺が代表でコピー取っとくから飯の前に取りに来て、って言っといたのに、坂元さんだけ来てくれなくてさ」 「別に俺から渡さなくても」 「そんな口実でもあった方が裕太も話しかけやすいだろ。任せたぜ」  俺って親切だなぁ、と自画自賛している山下は放っておき、俺は預かった紙切れを手に食堂の中のD組の席の辺りを見回した。でも彼女の姿はどこにもなくて、この時たまたま昴流が側を通りかかったから「坂元さんってどこだか知ってるか?」と聞いてみる。 「しおりんなら、忘れ物したとかでチャペルに戻ったみたいだけどな」 「そっか」    俺は食べ終えたお盆を持って立ち上がると食堂を出た。  ここの施設は山奥だけに土地が広くて、食堂棟とか宿泊棟とかも森の中に散在しており、その中でもチャペルは木立の奥の方にある。  夜だから辺りはもう真っ暗。渡り廊下に灯る小さな灯りを頼りに歩いていくと、木造のチャペルに電気がついているのが見えた。  入り口のドアは開けっぱなしで、中からは人の気配がする。  俺がそっと覗いてみたら、二人の生徒が話し込んでいた。  そのうち坂元さんの方は昼間の説法の時間に座っていたのと同じ辺りに腰かけていて、それを覗き込むようにして男子生徒が立っている。  そいつの名前は俺も知っていた。ついさっきのディスカッションで同じ班にいたD組の林裕太っていう奴だ。同じ裕太なのに、とこっちが嫌な気分になるくらい、髪の毛サラサラで背が高くて、爽やかな雰囲気のイケメン。  『あいつは”テニスの王子様”。数少ない女子の人気を一身に集めてんだ』とは同じ班にいたA組のテニス部員からの情報だ。  ヒラメもそんなイケメンに首ったけで、応じる林の方だってまんざらではない様子だったのに……。  ……どういうことだよ、これ。  仲睦まじい二人の様子には目を疑った。  人違いか? でもあの瓶底眼鏡は間違いなく坂元さんだ。  重たい切り下げ髪が邪魔して俺がいることにも気付かないままに話し込んでいる彼女は、間近に迫った林にも全く動じていなかった。  林なんて坂元さんの椅子の背もたれに手をついて体重をかけているから、その距離感はまるで壁ドンしているみたいなのに……。  ……なんだよ、それ。  俺の足元で膝が笑い出した。可笑しくも無いのに笑うのはこいつくらいのもんだ。  彼氏がいるのかよ。  でもそんなの今までおくびにも出さなかったじゃねぇか。  頭が混乱してきた。俺は震える膝を叱咤して回れ右をすると、そのままわき目もふらず渡り廊下を走り抜けたのだった。
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