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第2章 夏
修養会は最悪だった。林の壁ドンだけじゃない。今年から女風呂を使えなくなったせいで風呂の時間は短くなったし、女子がいるから夜中までぴりぴりしていた先生たちはしょっちゅう見廻りに来たし。
しかし何が一番腹立つかって、あの林の書いた修養会での感想文が学年報に載ってたことだったりする。
あいつ、修養会じゃ女といちゃついてただけなのに、神の教えに感銘を受けたとか、祈りの時間を大切にしたいとか、調子のいい事ばっかり並べやがって……!
一方、旅行週間が終わって再開した弓道部には、新入部員らの袴一式が届いていた。
念願の袴にうさ子は大喜びで、五十嵐先輩も「うちも華やかになるなぁ」と鼻の下を伸ばしっぱなし。
……ちぇっ。やっぱり女子なんか嫌いだ。大っ嫌いだ!
すっかりむくれていた俺は、身近にいた昴流に当たってしまった。
部室で袴の着方を教えた時の態度がキツくなり、これには昴流も「いいよ。お前の指導なんて受けねぇ。一人で着てやる」なんて言い出してしまったものだから、間に挟まれた宮ぽんはおろおろしていた。
「バカ言うなよ。袴なんて一人じゃ無理に決まってるだろ―――こら、お前もおとなしく立ってろ」
宮ぽんの帯をきつく結んでやりながら、俺もつい声を荒げてしまい、狭い部室の中は険悪ムードがどんどん色濃くなっていく。
そんなところにマユが入って来た。彼女はもちろん袴に着替え終えている。
「ねぇ、まだかかるの?」
「か、勝手に入るなよ!」
「男子のパンツなんか見たって喜ばないわよ。手伝ってあげる」
平然と言い放ったマユは胴着に手を伸ばそうとしたけど、昴流は素早く後ずさった。
「お、俺はユータに手伝ってもらうから……」
「全くもう……」
マユは代わりに宮ぽんの袴を手に取り、着つけを完成させた。その手際の良さよりも、着替え中の男子に女子が混ざっているこの状況に俺たちは戸惑う。
「……お前さ、何も気にならない訳?」
「は? 男子の着付けだってこれまでずっと面倒見てきたんだから、何を今更……ほら、できた。意外と簡単でしょ」
「はい。ありがとうございます」
宮ぽんが真っ赤な顔で礼を言う。
「さ、早く練習しよ」
宮ぽんを促して部室を出ていくマユを、俺と昴流は恐いものでも見るような目で見送った。
「……痴漢だな」
「女子だから痴女になるんじゃねぇの?」
いずれにしろ凄い女だ。俺は一生かけても、彼女にかなわない気がしてきた。
その日は、6月半ばに迫った練習試合についての話があった。
対戦相手の勝世学園は横須賀にあるプロテスタントの男子校だ。新約聖書の中にある『世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか』という聖句を学校名にしたこの学校は、立共ほどの歴史は無いが規律と礼儀を重んじる、立共以上に男子校らしい学校で、弓道場がうちよりも広くて立派だから試合の時は大体ここに集まらせてもらっている。
「裕太君、ここって……」
五十嵐先輩からの話が終わった後、袴姿の坂元さんが俺に話しかけてきた。配られたプリントに勝世学園の地図が載っていて、その中に彼女の目を引く文言があったのだ。
「あぁ、戦艦三笠か」
「さすが、話早い」
地図中の三笠公園を指で押さえた坂元さんはにっこり笑ってくれたけど、俺はそれに付き合ってやらなかった。
「さっきの先輩の話聞いてたか? 帰りはみんなで弓具を学校まで返しに行くし、見物しにいく余裕なんてねぇぞ」
「そっか。ごめんね」
彼女は恐縮した様子で俺の側から離れていき、俺もそんな自分の心の狭さに吐き気を催すくらいだった。
別に坂元さんが何か悪いことをしたわけじゃないってのに……でもさ、やっぱあぁいう派手な男とデキてたってのは反則じゃねぇか?
気持ちが収まらない俺は、坂元さんだけ弓道場の中で指導してくれるように五十嵐先輩に頼んだ。
俺も試合前だし自分の練習時間が欲しいから、少し手伝って欲しい、と。
先輩は訝し気な顔で俺を見てきた。
「お前はそれでいいのか?」
「……どういう意味ですか?」
「そんなにムキになるなよ。分かった。じゃあしおりんだけ預かりゃいいんだな」
そんなわけで坂元さんとの関りを極力減らした俺は、そのうち中間試験前の休部期間に入ったから、彼女とは一切顔を合わさないようになった。
再会したのは勝世学園での試合の日だった。
まだ弓を引き始めたばかりの新入部員たちは試合に出られないけど、見学には来ていて、試合前の坂元さんは壁際にポツンと座っていた。
多分、自分が試合に出ないから、やることがなくて手持ち無沙汰なんだろう。
そんな姿を横目で見ながら俺は黙々と弦を張っていたけど、そこへ勝世学園の高校二年生、柿本先輩が話しかけて来た。少し目尻の垂れた柔和な顔立ちで、ひょろっと背が高い、他校の俺の事までよく気にかけてくれる優しい先輩だ。
「立共は本当に共学になったんだね。女子がいるなんてすごい違和感だ」
「ですよね。俺も全然慣れません」
俺が同意すると、先輩は坂元さんを指さして言った。
「あの子はもしかして裕太クンの彼女?」
「そんなんじゃないですよ」
俺は首を横に振った。
「俺、そーいうの興味無いんで。女子なんて所詮俺たちとは異次元の生物で、何考えてるんだか全然分からないし」
「本当に? じゃあ付き合ってもらおうかな」
「え?!」
驚いて先輩の顔を見直したら、とても優しい笑顔で見つめ返された。
冗談……だよな? でも、目がマジな気も……。
「いやでも……」
「いいじゃん。それなら今日の試合で僕と勝負しようよ。僕が勝ったら……」
「裕太、そろそろミーティングするよ」
マユが俺を呼びに来た。しかしその女性らしい高い声に、柿本先輩はぎょっとして顔を上げる。
「女?!」
「……女ですけど、何か」
マユの目が氷点下まで下がったのが、手に取るように分かった。セーラー服の時はともかく、袴姿、ショートカット、しかも胸がまな板、と3点が揃ったマユは本当に性別が分かりにくい。
「……失礼します」
柿本先輩が失言をどうやって誤魔化そうかと悩んでいる間に、マユは般若の形相で行ってしまった。先輩は怯えた目でその背中を見送る。
「……うん。確かに女ってのは理解しがたい生き物だね」
「あれは特別です」
俺は苦笑交じりに頷いた。
でもこのやりとりが影響したのか、その後のマユは相当ヤバかった。
一本も外さない。
試合の集中力、ハンパねぇ。
そして怒り度合いもすげぇ……。
女子だからちょっとハンデつけようか、みたいな話も最初はあったんだけど、そんな紳士的意見は途中から綺麗に消えてしまった。
男に間違えられたのなんて、自分がショートカットで男みたいな容姿だから悪いんじゃねぇの、と思うんだけど、本人にとってはどうしても許せない事みたいだ。
ちなみに俺も今日は頑張った。その結果、三人一組で戦う三人立ちという団体戦では勝つことができた。まぁ、マユに言わせりゃ、これ勝ってもインターハイ行けないし、ってなるんだろうけど、でも勝てると嬉しい。
貼り出された個人の成績表を眺めながら、柿本先輩が言った。
「同点かぁ。腕を上げたねぇ、裕太クン」
「ありがとうございます」
「じゃあ居残りして遠近競技で決めようか」
遠近競技とは順位を決めるためのやり方で、一つの的に向かって交互に矢を射って、より中心に近い方を勝者とする。普段は的にさえ中ればいいのだけど、より正確さが求められる競技方法だ。
柿本先輩はやっぱり勝負の事を忘れていなかったらしい。
周りはそろそろ片づけに入ろうとしていたけど、俺は今日、調子が良かったこともあり受けて立つことにした。
1射目はお互い譲らず、ほぼ互角。
「やるねぇ。まぁ、僕も負けるつもりはないけど」
次の矢を用意しながら柿本先輩が笑った。しかし顔は笑っているのに目は真剣そのもの。
先輩はそんなに女子と付き合いたいんだろうか。まぁ男子校だから女の子と出会う機会も無いんだろうけど……。
これは冗談で終われないかも、と思った俺は、念のため先に断っておいた。
「でも結局のところ、付き合うとかは当人同士で話し合うものですし、俺にその責任は負い切れませんよ」
「だから当人に言ってるだろ」
柿本先輩は矢を番え、すうっと表情を改めて集中すると弓を引いた。矢は的のほぼ中央へ、小気味よい音と共に吸い込まれるように刺さった。
「当人って……」
「え? 裕太クンは女の子に興味無いんだよね?」
先輩にまじまじと顔を覗き込まれ、俺は反射的に曖昧な微笑みを浮かべた。別に嬉しかったわけじゃない。人間はテンパると、顔の筋肉が無駄に緩むらしい。
「す……す、すみません! そ、そ、そういう意味では無くて……し、失礼します!」
俺は一礼すると、先輩の前から脱兎のごとく逃げ出した。そしてちょうど用具を表へ運び出していた坂元さんと、弓道場の入り口近くで鉢合わせする。
「栞ちゃん!!」
藁をもつかむ心境だった俺の声は、弓道場に響き渡るくらいの大きさになってしまった。至近距離から大声で呼ばれ、坂元さんは驚いた顔をしていた。
「へ?!」
「戦艦三笠、見に行こう!」
「え?」
「行きたいんだろ。行こう、一緒に」
「いいの?」
「もちろん。じゃあ俺、今から着替えて来るから表で待っててな」
「う、うん……」
畳みかけるように言われた坂元さんは目をぱちくりさせていたけど、俺はそんな彼女を置いて弓道場の外へと飛び出してしまったのだった。
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