第2章 夏

2/5
前へ
/21ページ
次へ
 この後、俺は大急ぎで制服に着替え、なんとか無事に勝世学園の校門まで逃げ切ることができた。 「人生初の告白が男だった……」  まだ胸がドキドキしている。そんな俺の背後では、マユが腹を抱えて笑い転げていた。 「そう来たか。なるほどねぇ。裕太って意外と可愛い顔してるもんね」 「やめろよ。マジでびびったんだから」 「あんまり毛嫌いするもんじゃないよ。向こうだって勇気を出して告白してくれたんだろうから」 「……生理的に無理」  今になって目尻に涙が滲んできた。柿本先輩は悪い人じゃないんだけど、まさかそーいう趣味があったとは……。 「でも良かったです。安心しました」  宮ぽんが何故か胸を撫で下ろしている。 「……おい、なんで宮ぽんがそんなに喜ぶんだよ」 「そりゃお前が初日から抱きついたりするから、もしかしたら、って宮ぽんなりに怯えてたんだよ」  昴流が解説し、マユも「男子校だけにねぇ……」と薄ら笑いを浮かべてくる。 「お、お前ら、男子校をバカにするんじゃねぇ!」 「……それでお前は本当に坂元と二人で三笠まで行くのか?」  あべっちに聞かれたので、俺は渋々感を前面に出しながら頷いた。 「えぇまぁ……言っちゃった以上、行ってきます」 「ホントかぁ?」  五十嵐先輩はからかうような表情で俺を突っついてきた。 「そんなまわりくどい手を使って、さては最初から二人でトンズラするつもりだったんだろ」 「違いますよ。じゃあ、みんなで一緒に行きましょう」 「嫌だよ。お前らの邪魔するほど野暮じゃねぇし」 「だ、だから、そういうのじゃありませんから!」  真っ赤になって怒る俺の肩から、先輩は弓袋など荷物の一式を取り上げてくれた。 「荷物は持って帰ってやるよ。邪魔だろ」 「すみません。ありがとうございます」  あべっちが不安げに念押ししてきた。 「制服着てるんだからな、節度ある行動を心掛けろよ」 「だからぁ何もしませんって! ただ戦艦を見に行くだけですから!」 「え、戦艦? 三笠ってどら焼きじゃねぇの?」 「いいからお前は黙ってろ!」  結局あべっち以下、部員みんなに笑い飛ばされながら俺たちは三笠公園へと向かうことになった。  山際にある勝世学園から海辺の三笠公園までは歩いて20分くらいの距離だ。  二人きりになったところで、俺は改めて坂元さんにお詫びした。 「ごめんな。変な口実に使っちゃって」 「え?」 「いやその、急に名前で呼んじゃったりしてさ。迷惑だっただろ?」 「迷惑じゃないよ。それに名前で呼んでもらえたのは嬉しかったし」  彼女はにっこりと笑っていた。 「だって私だけいつまでも名字呼びだったし、私だけ指導してもらえないし、嫌われちゃったかと心配してたくらいで」 「いやそれは……」 「やっと仲間に入れてもらえた気分ですよ、裕太君」  坂元さん、いや栞ちゃんは俺の傍らでくすくす笑っている。  そう、栞ちゃん―――。  ……いや、この響きヤバいだろ。女子を名前で呼ぶなんて幼稚園以来だからしおりんって呼ぶのすら避けてきたような奴が、なんで一足飛びに栞ちゃんなんて呼んじゃったんだか。  一方、三笠公園へ向かう彼女の足取りはとても軽やかだった。それを見ていたら俺はちょっと胸が痛くなった。  彼女が喜んでいるのは戦艦三笠に行けるから。  こんな歴史ネタにつきあえる奴なんて、そうそういるもんじゃない。普通の人は、昴流じゃないけどまず最初に三笠って何?、から入るものだ。  つまり俺は歴女の彼女にとって、話が分かるだけのオトモダチなのだ。  戦艦三笠は日露戦争の日本海海戦で活躍した名将、東郷平八郎の旗艦だ。甲板には大きな主砲が前後に2基備え付けられているし、補助砲も船の側面にたくさん並んでいる。  この時代はまだ飛行機が開発されておらず、戦艦に積まれた砲弾だけが攻撃の決め手だったのだ。  東郷平八郎はこの砲弾の命中率を高めるために、訓練を繰り返した。その成果が、日本海海戦の圧勝につながっている。  試しにその辺りの話を彼女に振ってみたらやっぱり知っていて、さらには広瀬中佐の旅順港閉塞作戦にまで話題は広がった。俺は小説で読んだことがあるから知っていたけど、こんなの普通の人だったら絶対分からないネタだ。 「やっぱり詳しいなぁ。どの時代でも好きなわけ?」 「うーん、でも古墳時代以前はあんまり。土偶とか貝塚とかはいまいちぴんと来ないかなぁ」 「そりゃせっかく大森貝塚の近くに住んでるのに残念だな」  話をしながら艦橋、つまり船の司令室にも上がった。屋根は無くて、マストの上の足場がちょっと広くなっただけの小さなスペースだ。 「ここに東郷元帥、こっちに参謀の秋山中佐……」  御親切にもどこに誰が立っていたのか、立ち位置が埋め込まれており、栞ちゃんはそれを一つ一つ指さし確認しては仔ウサギのように飛び跳ねていた。  土曜日の午後、雲一つない行楽日和だけど観光客はまばらで、艦橋に上がっているのも俺たち二人だけだった。 「こんなに好きなのに、今まで来た事無かったんだな」 「うん。だって一人ではしゃいでいたら私って変な人でしょ」 「それもそっか」  艦橋には潮風が絶えず吹き抜けている。太平洋戦争後、ソ連の圧力で甲板上部が半ば解体されてしまった三笠だが、その後いろんな人たちの働きで復元され、おかげで今こうやって俺たちは心地よく風を受けながら見学できている。 「栞ちゃんはさ……」  まだ呼び慣れない呼称にドギマギしながら、俺は話しかけた。 「どうしてこういうところを巡るのが好きなんだよ?」 「重ねた歴史を肌で感じられるからかな」  彼女は小さく笑った。 「大勢の兵隊さんが、この甲板の上を走っていたわけでしょ。艦橋では作戦を練って、それを伝える人がいてみんな命を懸けて祖国を守った。この船を復元させた人たちの想いなんかも含めて、こういうところにいると、たくさんの人たちの息吹が直接響いてくる」  目を閉じ、手を広げて風を受けている彼女の姿は、ひどく心地よさげだった。 「……体全体で聴いているんだな」 「え?」 「そんな気がしてきた」 「面白い事言うね、裕太君てば」  栞ちゃんがくすりと笑った。強い風で乱れた髪の毛を右耳の下でまとめるように撫でる。 「でもそうかも。体に直接響いてくる音を聞くのが、私は一番好き」  一陣の風が吹いた。  夏服の黒い襟が風にはためき、なんだか彼女がこのまま飛んで行ってしまいそうな心細さを覚えた俺は、その細いシルエットを抱きしめたい衝動に駆られたのだった。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加