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その1
ここに来るのは何回目だろう。
東京に来てまだ2か月も経っていないけど、ここにはほぼ毎晩来ている。
東京に来て何よりも最初に吸い込まれたのが、ここなんだ。
アルバイトの先輩たちがたまに連れて行ってくれる、オシャレなカフェやダイニング。
ファッションやグルメの話、そして恋バナ。
女同士の他愛もないおしゃべり。
みんな優しくていい人たちだけど。
正直、つまらない。
だから何となくやり過ごして、気がつくと毎晩ここの地下に続く階段を降りている。
地元にいた頃、優等生のフリをしながら毎日が息苦しくて息苦しくて誰とも話が合わなくて、誰も分かってくれなくて、消えてしまいたくて。
そんな時、毎晩布団の中でヘッドフォンをしてコッソリと聴いていたのが、
パンク・ロック。
知ったきっかけは何だったんだろう。今となってはもう思い出せない。
今まで聴いたどんな音楽とも違った。
激しめの曲ならそれなりに世の中にあるけど、パンクは形だけの激しさじゃない。衝動や鬱積、不満、切り裂かれるような思いが曲から滲み出てくるのが分かるんだ。
歌詞も夢中で追った。自分が感じてるのと同じような気持ちがあふれてる。表現は違っていても伝えたい思いは分かりすぎるくらい分かった。
そしてそのルックス!学校のクラスメートに見せたら「ダサイ」「キモイ」「恐い」「カッコ悪い」で終わるんだろうな。
でも、お決まりのファッション…周りと同じ格好で流行に遅れないよう必死な人たちより、パンクスたちの方がずっとずっと輝いて見えた。
パンクってひと口に言ってもいろいろなジャンルがあって、外見もさまざま。まるでファッション雑誌をめくるような感覚で、パンク雑誌に載っているパンクスたちを追い続けた。
パンクの全てにのめり込んだ。これしかないというくらいに…いや、これしかなかった。
最初は有名なバンドから聴き始めて、そのうちにどんどん掘り下げていった。パンク雑誌、動画サイト、バンドのウェブサイト、エトセトラエトセトラ。深く広く。
東京で活動しているマイナーなバンドのブックレット(CDなどの音源に付いてくる紹介文や解説文)やウェブサイトのスケジュール欄には、決まっていつも同じ地名が出てくる。
高円寺。
だから地元から逃げるように上京して、真っすぐここへ来た。
このライヴハウス「ギヤ」に。
アルバイトはすぐに見つけた。仕事をしないと生きていけないもん。
ぶっちゃけバイトだって初めてだったけど、余裕なフリして潜り込んだ。高円寺では過去の多くは問われない。
住まいは行き当たりばったり。未成年だし、家出少女に保証人はいない。荷物はカバンが2つ、それだけ。
運良く、上京した初日にライヴハウスで出会った年上の女の人が「それならうちに泊まれば」と、しばらく居候をさせてくれることになった。何とかホームレスだけは回避。
条件は家賃3万円と家事の手伝い、そしてバンドのスタッフとして雑用をやること。
彼女はえらく格好良い女性だけのバンドを組んでいる。歌う姿は、まるで吠える雌ライオンだ。パンク界隈では有名人らしい。いつかあんな風になりたいな。
「早く出て行けるようになりなよ」と言われているけど、当然そのつもり。まずは二本の足でしっかり立つこと。バンドを組むのはその次。
でも、早く歌いたいよ。
まだ、あんまり友達はいない。
実のところ一人もいない。
毎晩ここに来ているけど「パンクが好き」というだけで他に何にもなしに誰とも彼ともすぐに仲良くなれるほど社交的じゃあない。だいいち、そんな風だったらたぶんここに来ていないよね。
でも、分かる。ここにいるみんな、多かれ少なかれそんなやつばっかり(ときどき「騒ぎたいだけ」の人も見かけるけど、そういう人はルールが分かってないから大抵トラブルを起こす)。
みんな不器用でどこにも染まれなくて、はみ出してさ迷ってここへ来た。
顔を見れば分かる。
だから一人でもあんまり寂しくない。
みんな同じ気持ちでここにいるのが分かるんだ。
同じ空の下で育った、地下室の兄弟たち。
そのうち何となく友達ができるんじゃないかな。たぶんね。
ヴォーカリスト(歌い手)になりたい。
だから喉は大事にしている。
喉アメは常に持ち歩いている。
今夜もギグが始まりそう。自分が歌うわけじゃないけど、ひとつ舐めておこうかな。気分の問題だね。
イヴェントが始まる前のバー・スペース、何となくざわめいた雰囲気。
大きな会場での高揚感とは違う「今日もまた」という感じの日常感。実際にここに来てみて初めて味わった。イメージしてたのと全然違う。なかなか、いいよ。
アメ玉の袋を破って口に入れようとした。
後ろから誰かがぶつかってきた。
アメ玉が宙を舞う。前につんのめりそうになるのを何とか立て直した。
「あっ、悪りい。」
思いがけず優しい声。
この声の持ち主は普段、もっと厳しい響きで相手に辛辣なセリフをぶつけているはず。
振り返った男の顔。何よりもまず鋭い眼光に目が行く。
端正な顔立ちだけど、その目つきが人を威嚇し遠ざける。
よくよく見れば瞳は明るく澄んでいるのに。
整えた細い眉は眉間に寄ったシワで吊り上がっている。鼻の形はいいけど折れた跡がある。口は真一文字に結ばれて、あごが細い。
長めの黒髪を無造作に立てて頭には黒く細いヒモを巻いている。
洗いざらしの白いタンクトップが擦り切れている。見たところタトゥーは入れていない。
タイトな革パンに長い足。もとは白かったっぽいスケーター・シューズは茶色く色あせてくたびれている。
スリムかつ筋肉質で、身のこなしがしなやか。
彼のことは知っている。ここで何度も見かけたから。
確か、今日出演するバンドでギターを弾いていたはず。
とにかく荒っぽいので目立つ人。ステージでは怒り狂ったみたいにギターを刻んで暴れている。ライヴの後は浴びるほど飲んで誰彼構わず喧嘩腰の言葉を浴びせて、最後にはいつも彼の周りには誰もいなくなっちゃう。
でも今日は飲んでいないみたい。少なくとも、今はね。
「ごめん。」
彼は少しうろたえている。まるで叱られた子供みたい。
予想外の反応。こっちもつられて、どうしていいか分からず黙っちゃう。ちょっと気まずい。
彼の視線が床に落ちたアメ玉に注がれた。
アメ玉にはホコリがベッタリとくっついている。
と、彼が素早い動きでそのアメ玉を拾い上げ、サッと身をひるがえして走り去った。
トイレが閉まるバタンという音が響く。
バー・スペースには他に誰もいない。もうライヴが始まっているのかな。
彼、どうしたんだろう。行っちゃっていいのかな。
どっちつかずの気持ちで、トイレの扉を見つめて待った。
1分、2分。もっと経ったかもしれない。
ようやく扉が開いた。
彼が出てきて真っすぐこっちにやってきた。
「これ。」
差し出されたのは…さっきのアメ玉。
丁寧に丁寧に洗った透明なアメ玉が水に濡れて光っている。
「金ねえからさ。買って返せねえから、これで勘弁してくれよ。ホント悪かった。」
冗談かと思ったが彼は大まじめ。口をギュッとすぼめて答えを待っている。
思わずプッと笑ってしまった。
「うん、いいよ。」
しまった、笑い者にしちゃった。
怒り出すかな…と心配したけど、彼はホッとした顔を見せた。
「良かった。じゃな。」
軽くうなずいてホールの方へ向かっていく。
その背中に急いで声をかけた。
「ありがと。」
彼はこっちを見ないでバイバイという風に手を振った。
残されたのは手のひらに乗ったアメ玉。汚れは綺麗に落ちていた。
普段なら落としたあめ玉なんていらない。
でも何だか彼の心意気に悪くて、そっと口の中に入れてみた。
甘みに混じって、かすかに水道水の味がした。
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