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その5
オマワリの姿が完全に見えなくなるまで動けなかった。
行っちゃった。
途端に足が震えてきた。必死に平静なフリを保ちつつ、心の底からホッとした。
「ありがと。」
「ビビったろ。」
「ビビってない!…いや、ビビった。恐かった。」
正直に言っちゃった。でも彼には隠さない方がいい気がしたから。
「田舎じゃまずねえよな、こんなこと。」
「うん。どうしていいか分からなかった。」
「そのうち慣れる。アイツら俺たちを目の敵にしてるからよ。パンクやってんなら、職質は覚悟しねえとな。」
確かに、そうだ。
普通の格好だったら、オマワリも寄ってこないよね。
憧れて憧れて、やっとパンクの仲間入りをした。
でもそれはパンクである自由・楽しさと同時に、世間からの軽蔑や批判や先入観や、社会的制約との戦いでもある。
分かっているようで分かっていなかった。
ファッションだけなら誰でもできる。
でも生き方としてパンクを背負うなら、そのリスクも気合い入れて受け止めないと。
「うん、分かった。」
彼が身をもって教えてくれた。
お礼に、さっきの話は蒸し返さないことにした。
「場所、変えるか。」
「またオマワリさん来るんじゃない?」
思わず「オマワリさん」って言っちゃった。
「来たってさっきと同じことだけどな。まあ、もうちょい目立たない場所に行くとするか。」
お寺の上に見える空の色が少しずつ白くなってきた。
始発電車まであと1時間くらい。
彼に案内してもらった場所は、PAL商店街を横にそれた通り沿いにあるスーパーの前。さっきの場所とあんまり変わらない気もするけど、ここはオマワリがあまり通らないって。
道幅が広くて、その奥に見えるお寺がいい雰囲気。
ここに来る前に彼はコンビニに寄ってまた缶ビールを買った。ちらっとのぞいた財布の中身は確かにもう空っぽだった。
「ねえ、このヒモってどこで売ってるの?」
こっちも眠くなってきて、さっきから同じような話をグルグルと回っている気がする。
「これマーチンの靴ヒモだよ。」
「うっそー!」
「マジ、マジ。」
「ホントだ、靴ヒモだ。そんなものでいいんだ。」
「黒Tシャツの端を切って巻いてもいいんだよ。」
「そうなんだ。そういうことは知ってるのに、名前は知らないんだ。」
「名前なんか重要じゃねえだろ?お前、こだわるなー。」
「好奇心旺盛だもん。」
「今度、ファイヤーバード・ガスのイシさんに聞いてみろよ。あの人も確か『ヒモ』って言ってたぞ。」
「そういえばあの人も巻いてたね。ハコの店長さんだし、そういうこと詳しそう。」
「そうしろ。俺に聞くな。」
彼は限界が近いみたいだ。電柱にもたれて座っているけど、口数が少なくなってウトウトし始めた。それでも必死に会話についてきてくれている。
「早く、バンドやりたいな。」
さっきから何度も言っている。いったん口に出したら止まらなくなっちゃった。
ほとんどひとり言なんだけど、それでも彼はちゃんと答えてくれる。
「メンバー、探してるのかよ。」
「まだ。何せ家無しだし『オイラは宿無し』ではないけど。だいたい高円寺とかバンド関係で、ちゃんと話をする人だってまだいないんだよ。」
「そうなのか。一人もか。」
「うん。ガーリーさんは別だけど、あの人はもう雲の上の人だし。こっちは居候の身だし。分かってくれてるけどね。」
「ギヤで声かけてくるやつとか、いるだろ。」
「まあいるけど…大抵ナンパだったり、ヘラヘラしてるやつばっか。楽しいのはいいよ別に。でも楽しい『だけ』の人、イヤなんだよね。」
「あー、それは俺も同じだ。」
「アンタは喧嘩しちゃうから友達ができないんでしょ?一緒にするな。」
吹っ掛けてみたけど、彼には聞こえなかったみたい。
「ナンパ野郎な。殴っちまえばいいんだよ。」
「どうして殴るのよ。そんなのシカトしてれば、そのうちどっか行っちゃうからいいの。」
「ぶっ飛ばせばいいんだよ~。」
語尾から彼の眠さがよく伝わってくる。
「だから高円寺に来てここまでちゃんと話したの、アンタが初めて。」
「そうか。」
「パンクの話、ここまでしたのも生まれて初めてだよ。」
「そりゃ光栄だ。」
「ねえ。アンタとアタシ、もう友達?」
彼は酔いが醒めたみたいにパチクリした。
「友達?」
「そう。アタシ、こっちで友達いないから。」
「田舎には、いたのか?」
「…ううん。たぶん、いない。何ていうか、話をしたりする子はいたけど…本当の意味で友達じゃない。みんな、アタシと違うんだもん。」
本音で話したことなんか、なかったよ。
「何か…分かるな。俺も、いねえや。」
「ねえ、友達なのかな?」
「友達なあ…友達って、何だか気恥ずかしいな。『ダチ』とか『ツレ』とかは言うけど…何かバシッとこねえな。」
「じゃあ、何なの?」
「うーん。仲間、かな。」
なかま。
そうか、仲間。
いい言葉だ。仲間なんて言葉、今まで深く考えたこともなかった。
そうか、仲間か。
「仲間。それ、いいね。」
「だろ。」
彼は大きなあくびをした。
太陽の気配が漂い始めた。もうすぐ夜が明ける。
「ねえ。スマホの番号でもLINEでもいいけど、連絡先教えて。」
「いま止まってんだ。金なくて。」
「ふーん。それって体裁のいい断り文句なの?」
「違うって、マジで止まってんだ。家に置いてある。番号は…分かんねえ。覚えてねえ。」
「じゃあ、アンタに連絡したい時はどうすればいいの?」
「ギヤに来いよ。大抵そこにいるから。」
確かにそうだ。自分だってそうじゃないか。
毎晩、そこにいるじゃないか。
「そうだね。」
思わず笑顔になった。一緒だ。おんなじだ。
地下室の兄弟、地下室の仲間だ。
「じゃあ、そろそろ始発だから行くね。」
「おう、行け行け。」
「アンタどうするの?」
「俺は歩いて帰れるからよ。」
「えっ?」
そうなんだ。
じゃあ、彼はいつでも家に帰れたんだ。
あるいは「帰れないなら俺ん家に来いよ」って誘ってあとはヨロシクどうにか、とかそういうことも考えずに。
一晩中、付き合ってくれてたんだ。
なーんだ。やっぱり、いいやつじゃん。
「ありがとう。」
「ああ?」
「ううん。何でもない。」
何時間も道路に座っていて、身体は板みたいにカチカチ。ふくらはぎが重くだるい。
明日はバイトもスタッフ業務もないし、寝かせてもらおうっと。
「じゃあ、行くね。」
「おう。またな。」
何歩か歩いたところで不意に思い出した。勢いよくターンしたので危うくひっくり返りそうになる。
「大事なこと、忘れてた!」
「何だよ。」
「アンタ、名前なんて言うのよ!」
彼はポカンとしてたけど、ややあってクックッと笑い始めた。
「バカみてえ。お互い名前も知らねえで、飲んでオマワリに職質されてよ、こんなクソみてえな路上で明け方までよ。」
「何回か名前を聞こうと思ったけど、今夜はいろいろあり過ぎて…途中で忘れちゃってた。でも次ギヤで会っても、なんて声かければいいか分からないもん。」
「俺、シン。」
「シン。シンか。」
シンは座り込んだまま、まだ笑っていた。笑いながらまぶたが薄く閉じかけている。
「アタシ、佑。」
「ゆう?」
「うん。あー、でもその名前、好きじゃないんだ。本当は別の名前で通したいんだけど。」
「何だよ。」
「アイヴィー。変かな?」
シンは目を閉じて思慮深げにうなった。
「すっごく考えたんだよ。ねえ、どう思う?」
「あいびー。いいよ。格好いい。」
「ホント?アイヴィーだよ。ねえ、いいよね。」
「あいびー。あいびー。」
シンは呪文のように唱え続けていた。
「よし!じゃあ今度からアイヴィーで通すから。佑って言うなよ。その名前は内緒だよ。」
ウキウキしながら空を見上げる。今日からアイヴィーだ。新しい自分の始まり。
返事がない。
振り返ってみた。
シンは口を開けたまま寝ていた。
電柱に寄りかかり、缶ビールを左手に持ったまま。
「寝ちゃった。」
起こした方がいいのかな。
でも、気持ち良さそうに寝てるし。
爽やかな朝の陽ざしが柔らかく空気を覆う。風邪を引くような天気じゃあない。
一文無しのパンクス。ギターケースは背中にしっかりとたすき掛けしている。外見は見るからにトラブルの種。
彼にちょっかいを出そうという人もそうそういないだろう。
これが彼の日常なんだ。
起こさない方がいい。シンもそれを望んでいるような気がした。
最後に、彼の顔をじーっと見つめてみた。
寝顔は意外と可愛い。シン、何歳なんだろうな?
ふと思いついて、ポケットから袋に入ったアメ玉を取り出した。
そっとシンの右手に握らせる。シンはかすかに呻いたけど、身動きしなかった。
目覚めた時、このアメ玉を見て何か思い出すかな。
「じゃあね、シン。またね。」
アタシ、アイヴィーはそう言い残すと、高円寺の街を駅の方に向かって歩き始めた。
ここで初めて仲間ができた。
こんな嬉しいことはない。
歩きながら、ニヤニヤ笑いが止まらなかった。
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