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父さんはロボット
「ただいま」
だれもいない自宅に少女が帰ってくる。リビングに入り、かばんを床においてテレビをつける。乱暴にかばんを置いたので、お守りの歯車が澄んだ金属音を立てた。おそらく狭いであろうアパートの一室。ちゃぶ台のように背の低いテーブルが部屋の中央を占拠している。学校から宿題が出ているが、まだ手をつける気分ではない。
母親は働いていて夜遅くならないと帰ってこない。冷蔵庫に少女の夕食が入っているはずだ。父さんは死んだ。ロボットだから母親よりは長生きすると思っていたのに、トラックに轢かれてあっけない最期だった。父さんはロボットだから、手足がばらばらになったくらいでは死なない。記憶が壊れたのだ。
少女は台所へ行き、急須に茶葉を入れる。スーパーで買った安い緑茶だ。お湯を注いで茶葉が開くあいだに、近くの棚からせんべいを取り出す。ほのかに緑茶の香りがただよってくる。高級なお茶の香りを知らないから、少女にとってこれがお茶の香りなのだ。湯呑みにお茶を注ぐと、せんべいの袋といっしょにリビングのテーブルへ持っていく。これまた湯呑みも安物なので、長く持っているとお茶の熱さが手に伝わってくる。熱さで持てなくなる前に手早く運ぶ。
父さんが死んだことを知ったのは病院だった。ロボット用の病院。医者がむずかしい言葉を使って母親に説明していた。なにを言っているのかまったくわからなかったけど、母親がひどくぶさいくな顔をしていたのを覚えている。あれは、泣くのをこらえていたのだろう。そのとき、たぶん死んだのだと思った。一度記憶が壊れたらもとに戻らないと理解したのは、だいぶあとになってからである。
湯呑みから湯気が立ちのぼる。少女は熱いお茶を冷ますために息を吹きかけた。うす緑色の水面が波立つ。二、三度息を吹いたので、もう冷めただろうと、湯呑みを持ち上げて口を近づけていく。顔を近づけると、お茶のいい香りがした。値段が高くなくてもお茶はお茶なのだ。温度を確かめるため舌をちろっと出す。徐々にお湯へ接近させていく。舌にぴりっと痛みが走る。あわてて顔をひっこめた。どうやらまだはやかったようだ。いまだにひりひりする舌先を口のなかで養生しながら、湯呑みをテーブルの上へ戻す。代わりにせんべいの袋を漁り、一個一個包装されたせんべいを手に取る。
父さんが死んだあと、家計は苦しくなった。「ロボットの保険金は人間に比べて安いのよ」そう母親が愚痴をこぼしていた。人間とロボットが同じように扱われているのか、少女にはわからない。そもそも人間とロボットをどう扱えば同じになるのか。その答えはだれも知らない。そう少女は思っている。母親が夜遅くまで働くようになったのは父さんが亡くなってからだ。少女も働いて母親を助けたいと思ったが、子どもがやれるような仕事はすべてロボットがやっているらしい。「なにも心配はいらない。あなたは安心して勉強しなさい」こう母親に言われた。どこがどうやって勉強につながるのか不明だけど、それなりに勉強はしている。まんなかよりは上の成績のはずだ。父さんに似たわけではない。父さんはロボットだけど、あまり頭のいいタイプではなかった。「この子は優秀になるぞ」親バカの例にもれず、少女の父さんも娘を手放しでほめていた記憶がある。
机の上にせんべいを並べる。ひと口サイズなので、割らなくても食べられるのだが、いつもの癖で割ってしまう。包装を開ける前に力を入れ、一回、二回とさらに細かいサイズにくだいていく。せんべいの割れる音が景気よく部屋にひびく。きれいに四等分できるときもあれば、芸術的な割れ方をすることもある。
割ったことで気がすんだ少女は包装の袋を破く。手ごろなサイズに分割されたせんべいをつまんで口に運ぶ。塩の味がする。ばりばりとかみ砕いていく。せんべい自体はどんな味がするのだろうと、噛まずにじっと待っていたことがあった。だんだんと塩味が抜けていく。さらに待つと、せんべいは唾液を吸ってふにゃふにゃになる。少女の口のなかに出現したそれは、せんべいとは別物のなにかだった。少女は、これはせんべいではないという結論に達し、せんべい本来の味事件は迷宮入りとなった。
三、四個せんべいを食べたところで、少女が湯呑みに手を伸ばす。さすがに熱くはないだろう。湯呑を持ち上げてかたむける。体温より高い温度の液体が、のどを通って胸のなかへ消えていった。ふう、と息を吐く。鼻を抜ける香りが心を落ち着かせる。
少女が緑茶とせんべいを好むようになったのは、まちがいなく父さんの影響であった。ロボットの父さんから遺伝するはずはないから、そのすがたを見ているうちにまねてしまったのだろう。緑茶片手にせんべいを食べているすがたが、まぶたに焼きついている。家族の影響とはおそろしいものだ。
少女にはロボットの父さんとは別に人間の父親がいるはずだ。両親がそろっていなくても子どもを作れる技術はあるらしいけど、少女の親はそんな金持ちではない。最新の技術を使うには、とんでもなくお金がかかるのだ。
父さんが死んだときもそうだった。記憶が壊れたらよみがえらないのは、一般人に限った話。あの当時でも、お金を積めば回復させる方法があったらしい。でも、少女の家は良くも悪くも普通の家だった。父さんの死を受け入れるしかなかった。火葬の代わりにスクラップになった父さん。事故に遭ったときより、さらにばらばらになって再利用されていく。なにも残さないのは気の毒なので、家族には形見として部品の一部が渡されることになっている。母親は父さんの記憶のかけらを、少女は小さな歯車をもらった。
小さな歯車はお守りとして少女のかばんにつけられている。この部品が父さんのどこにあってどう動かしていたのか、まったく知らない。けれど、なんとなく父さんが見守ってくれている気がした。なにせ少女の父さんはロボットなのだ。幽霊にはなれないだろう。魂もないだろうから、天国にも地獄にも行けない。そう考えると、この歯車は父さんがこの世に存在した唯一の証拠なのだ。
お茶を飲みながら、少女はテレビを眺めていた。このごろ、物騒なニュースが流れている。ロボットの記憶をよみがえらせる技術が、格安で施せるようになったようなのだ。母親も、「もしかしたら、父さんが帰ってくるかもしれない」と期待を見せていた。
少女がせんべいを口に放り込む。もし、記憶が戻ったロボットが帰ってくれば、母親の負担はすくなくなるだろう。母親と過ごす時間も増えると思う。少女としては反対するつもりはない。それにしても、記憶を取り戻したロボットは、緑茶とせんべいを好むだろうか。それがわからなかった。ひょっとしてコーヒー党になっているかもしれない。そうだったら、ずいぶんしゃれたものだ。
少女がかばんを見つめる。あのなかには、たしかに父さんであった歯車が入っている。しかし、つぎに来る父さんにはあの歯車は入っていない。
「さっぱり、わからないわ」
少女は緑茶を口にした。ちょうどよい温度になっている。なつかしい香りが体を駆けめぐる。
「そろそろ、宿題をはじめないと」
せんべいと湯呑みをテーブルのわきによけ、今日出た宿題をかばんから出す。その宿題をテーブルに置き、少女は黙って向き合いはじめた。夕日がビルの向こうに沈もうとしている。
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