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16 grain candy
動かなくなった真っ赤なコートの男。
急に緊張が途切れたせいか、今さらながらあたしは、その場で腰を抜かして動けなくなる。
さっきは死ぬことが怖くないとか思っていたのに、自分が情けない。
そんなあたしに、数馬さんが手を出して立たせようとしてくれた。
この人はなんでこんなに優しいのだろう。
あたしがいなかったら、もっと楽にことを運べていたはず。
足手まといなんだから、もっと雑に扱ってくれていいのに……。
自分の情けなさと数馬さんの優しさで泣きそうだ。
「泣くなよ。お互い助かったんだから」
数馬さんはそう言ってニッコリと微笑んだ。
その優しい笑みを見てあたしは、堪えていたものが溢れ出してしまう。
ときに暴力よりも優しさのほうが、涙腺を刺激することをこのときに知った。
悲しいよりも嬉しいほうが涙を堪えられないんだ。
そんなあたしを見て困った顔をしている数馬さん。
そのとき、出入口から音がしてドアが開いた。
「あんたらが何で一緒にいんだよ?」
聞き覚えのある声――。
それに続いて、ライターで煙草に火をつける音がした。
あたしは恐る恐る声の聞こえるほうを見た。
煙草から紫煙が立ち上がっている。
そこには結花の姿が――。
「相変わらず女に優しいねえ、数馬は」
呆れた顔をして言う結花。
それから二人は向かい合って話し始めた。
「結花、そんなことよりお前、狙われているぞ。何かやらかしたのか?」
「あたしは恵まれない者に魔法をかけていただけさ」
結花はそういうと、煙を吐き出しながらクルクルとその場で回った。
まるで数馬さんのことを小馬鹿にしているみたいだった。
「魔法じゃねえだろ。このヤクの売人が」
あたしは、結花がドラックを売っていると聞いても、さほど驚かなかった。
むしろイメージ通り。
嫌悪の気持ちも軽蔑の気持ちもない。
そこから結花は、部屋に入ってゆったりとしたリズムを刻みながら踊りだした。
その様子は、まるで彼女の周りから音楽が聴こえてくるようだった。
これで部屋にあった家具が喋り、歌い始めたら、ミュージカル劇みたいだと思った。
結花は歌を口ずさむと、ユラユラと揺れながら説明を始めた。
今さっきあたしと数馬さんを襲った男と、この部屋でうなだれている男女たちは元々結花の客だったらしい。
最初は覚醒剤――スピードと呼ばれるアッパー系のドラッグを売っていて、注意事項として針の使う薬も絶対に使わないように言いつけていたと言う。
結花の売るドラッグはいわゆる錠剤タイプで、わりとカジュアルに使うようなものだったが、この部屋にいる者たちはさらなる刺激を求めた結果、彼女の調合したドラッグ――サイコキャンデの存在を知ったようだ。
「それであたしは、こいつらにサイコキャンディのことを教えた犯人を捜しているってわけ」
「サイコキャンディってのはなんなんだ?」
数馬さんが訊くと結花は嬉しそうにニッコリと笑った。
そして、両手を大きく広げて答える。
「簡単に言うと魔法だよ」
サイコキャンディとは、脳みその扉を開いてくれる鍵のようなもので、自分の能力を100%引き出せる薬だと言う。
数馬さんは「んなバカな」と言っているが、あたしにはよく分かる。
それは、実際にあたしがサイコキャンディを体験したからだ。
味わえばわかる。
あの高揚感と全能感を思い出すと、もう一度やりたくなってしまう。
「でも、当然リスクもある。おとぎ話もそうだろう? ルールを守らないと馬車もカボチャに変わっちまう」
そして結花は、今度は副作用について説明を続けた。
サイコキャンディに中毒性はない。
だが長く使用し続けた者は、継続して摂取しないと脳が縮んでいってしまうんだそうだ。
その脳へのダメージは、摂取量が多ければ多いほど取り返しがつかなくなり、ちゃんとコントロールするのはほぼ無理と言っていい代物らしい。
それを聞いて、あたしは少し安心していた。
一度くらいなら大したことはなさそうだからだ。
あたしは近くに落ちていたオレンジのサイコキャンディを手に掴んだ。
鮮やかなグラデーションカラーの飴玉。
話を聞いていて、もう一度やるくらいなら、脳への負担がないんじゃないかとまた思う。
あたしが手に握ったサイコキャンディを見つめている横で、数馬さんは結花を捕まえようと前に出る。
突然、パンッという音が聞こえた。
「てめえ、結花……」
「悪いねえ、数馬。だけどあたしはまだ捕まるわけにはいかない。この騒ぎを収めてから夢を叶えに行く」
見ると数馬さんの足から血が流れていた。
片膝をついた数馬さんを見たあたしは、慌てて近づく。
「ちょっと前にさ、男ができたんだよ。そいつさぁ、前髪で顔を隠してるどうしようもなく暗い奴なんだけど、なんだか一緒にいるうちに忘れていた夢を思い出しちゃってね」
結花はヘラヘラと小さな拳銃を持って言った。
こんなときに惚気話をする意味が分からなかった。
けど、よく考えてみると、それはあたしの気持ちを結花が知っていて、遠回しに断っているんじゃないかと思ってしまう。
結花は、部屋のカーペットの上に散らばったサイコキャンディを回収していく。
あたしには何もできなかった。
血を流れるのを見て怯えてしまっていた。
震えながら数馬さんを支えることしかできない。
「てな感じで、あたしは自分の夢を追いかけさせてもらうよ。バイバ~イ」
彼氏から連絡が入った女の子が友達にでも言う調子で、結花は部屋から消えていった。
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