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29 grain candy
「ちょっと前にさ、男ができたんだよ。そいつさぁ、前髪で顔を隠すようなどうしようもなく暗い奴なんだけど、一緒にいるうちに忘れていた夢を思い出してね」
……この人……結花の恋人か。
その人は、あたしが想像していた人物とはずいぶんと違った男だった。
メイクしたみたいな、目の下にある隈。
それに言っていた通り、前髪で顔を隠していて、色白で細く、顔も薄いせいかなんだか陰鬱な雰囲気。
結花は洋楽アーティストが好きなのに、この男は分かりやすい日本人の顔だ。
……こんな飄々とした奴なんて彼女には似合わない。
たしかに美形の部類に入れていい顔だけど、味気なくて寒々しくて、何よりも地味だ。
こんな奴が結花の恋人なんて……。
結花って、こういう女の腐ったみたいな奴が好きなの?
だったら……あたしでいいじゃん……。
あたしがそんなことを考えていると、数馬さんが前髪男の傍へと近寄っていった。
いいぞ、やっちゃって数馬さんッ!
そんなオカマ野郎なんか結花の店から追い出しちゃってッ!
「なあ、ひとつ訊いていいか?」
数馬さんはある程度の距離に近づくと、前髪男に声をかけた。
あたしはいつ殴りかかるんだと、期待してそれを見ていた。
数馬さんは、きっと結花の居場所を訊き出してからぶん殴る気なんだ。
「結花みたいな女のどこがよかったんだ?」
そしてその期待は、脆くも打ち砕かれた。
数馬さんもあたしと同じく、この男が結花の恋人だと気がついていたみたいだ。
それから数馬さんは、前にあたしと会ったときと同じように――いや、まるで妹の彼氏に質問をする兄のようなフレンドリーな態度で前髪男に接し始めたからだ。
望みは粉々に――。
願いは木っ端みじんに――。
思いは完全に粉砕された。
あたしは怒りで忘れていたんだ。
この人――白井数馬は、基本的に誰にでも友好的な人だったことを。
数馬さんは、前髪男に自分の自己紹介とあたしのことも紹介した。
自分は結花の従妹で、こっちの女は友人であると――結花との関係について簡単に説明した。
それを聞いた前髪男は、友好的な態度の数馬さんに気を許したのか、何故結花の店『A Kiss in the Dreamhouse』へ来たのかを説明し始めた。
何でも急に「一緒にロンドンへ行くか?」と訊かれ、前髪男は「自分には、音楽で成功したいという夢があるから一緒には行けない」と伝えた言う。
それから結花の説得が始まって、終いには「あたしが食わしてやるから一緒に来いッ!」とまで怒鳴り出したそうだ。
それでも互いに譲らなかった前髪男と結花は、激しく口論となり、それから連絡を取らなくなってしまったようだ。
「だから……その……言い方が悪かったなって思いまして……。それで彼女に謝りたくて……」
自分から折れるようとしてるところには好感が持てたけど、こんな奴、やっぱり好きになれない。
前にネットで『彼氏にしてはいけない3B』というのを見たけど。
たしか、バンドマン、バーテンダー、美容師だったっけ。
やっぱりバンドをやっている男なんて屑だ。
女の気持ちをまるで分かっちゃいない。
結花にそこまで言わせておいて、自分には夢があるだと!?
あたしが断言してやる。
お前なんて絶対に成功しねえし売れねえよ。
今すぐ音楽やめて働けよ。
金を稼いで結花を楽させろ。
お前はあの人と……結花と付き合えているんだぞ!
あんたが食わせてやれよ!
結花はこんなゲイ男のどこがいいんだか……。
あたしは、申し訳なさそうに説明をしている前髪男のことをずっと睨んでいた。
もしあたしがこいつの立場だったら、絶対に一緒にロンドンへ行く。
自分の夢なんてクソッたれだ。
大体才能がある奴ってのは、自動的に世に出ているもんなんだよ。
現実見ろよ。
そんな叶うかも分からないことなんかよりも大事なものがあるだろ。
結花が……。
あの強気で強引なロックスターDJが……。
わざわざ、あんたみたいな冴えない男を誘ってんだぞ。
彼女は、あんたに夢があるのを知っていて気を使ったんだ。
結花が気を使った……。
こんなオカマみたいな奴なんかのために、あの結花が……。
気に入らん、納得できん。
「あんたさ、結花がどんな女性か知っていて付き合ってんの?」
あたしの口から言葉が勝手に出ていた。
それは、勢いよくグラスに注がれたコーラが溢れてしまったみたいに。
そして、気がつくとあたしは、前髪男の目の前に立っていた。
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