神様の資格 ~常波としず~

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 しずは消え入りそうな声で言って、逃げ場を探すように膝を抱えて顎を埋めた。 「おじさんの知り合いのうちが、おっきな工場を経営してるんや。そこのお手伝いさんがひとり、お暇を頂いたってねえ……それで代わりを欲しがってるんやて」 「……それ、どこや」  しばし黙ってから、しずがつぶやいた。 「尾伊主(おいず)」  常波なら、海風に乗ればあっという間の距離だ。 「……そんな遠ないやんか」  距離だけ、なら。 「そうねぇ」  しずはほほえみ、かご用の草をぎゅっと握りしめた。 「でも、ここの海よりもきれいやないと思うわ」 「そんなことあらへん。尾伊主は魚だけやない、ええ山もある。美味いもんも仰山や。しずも今はそんなひょろひょろしとるけど、あっという間に肥えるんと違うか」  ほっそりしたしずの顎の線からそっと目をそらし、常波は威勢よく言った。 「そうねぇ」  諦めを含んだ声だった。  奉公に出れば、よほどのことがない限り生家に戻ることはない。年頃になればそのまま嫁入り先を世話されて、子を産む。しずもきっと。 「どうせ海には出られんしねぇ。このままうちにおるより、よっぽどいいわね」  しずがかすかに笑んだ。 「……でも、そうすると、村に神目のひとがおらんようになるわね」  くっきりと、大きな声だった。こんな小さな社の中で、必要もないくらいの、それはきっとしずの本音だからだ。  しずがまっすぐに常波を見た。  常波には、しずが言って欲しいことがなんとなくわかってしまった。ただ、それを自分が口にしてはならないこともわかっていた。  常波はこの海の神である。海にまつわることなら、快く手を出そう。だが、みだりに言葉を与え、人の生にとやかく指図することはあってはならぬ。 「神目がおらんでも、おれは神じゃ。しずに言うてもらわんでも、おれがここの守り神なことに変わりはない。資格がいる言うんなら、それも取る」  わざとらしいほどにぶっきらぼうに常波が言うと、しずはぱちぱちとまばたきをし、 「そうねぇ」  と、常波から目をそらした。  言葉が途切れ、外が静かになっているのに気づいた。  しずが立ち上がり、戸を開けた。雨土のにおいがどっと流れこんでくる。きらびやかな陽の光がしずの髪を輝かせる。 「常波」  呼ばれ、常波はしずの隣に立った。  大きく息を吸い、両手を掲げる。  右の人さし指と中指を立て、美しく洗われた空と、薄い黄金色に光る海へ向かって印を切った。  海のほうから風が吹いてきた。しっとりとした絹のようで、頬を、腕を、やさしく撫ぜる。  しずの髪がそよそよとなびく。 「ええ匂い」  しみじみとした声だった。  常波もしずも、幾度も嗅いだ、雨上がりのにおい。そこにたっぷりとした潮の香が混じり、心の奥までほぐしてゆく。  常波は気づかれぬよう、そっとしずの顔を仰ぎ見た。  普段ならやわらかく喜びに満ちるくちびるの端は、強く結ばれている。  どうした、と問うほど愚かなこともあるまい。  常波が何も言えず、海を見つめていると、しずがふ、と肩を落とした。 「雨も上がったし、帰るわ」 「達者でな」  この場になんと似つかわしくない挨拶だろう。奉公に出るまではまだ日がある。それなのに常波はどうしたことか、そんなことを言ってしまったのである。  しずは何度もまばたきし、 「はい。常波も……常波さまも御達者で」  いつになく、そして精いっぱいにていねいな語尾は、わずかに震えていた。  しずはそっと頭を下げ、常波に背を向けた。  細い脚が、泥をはねさせながら、ひょこひょこと山を下ってゆく。  拵えたかごはぜんぶ残されていた。  その日以来、しずが社にやって来ることはなかった。  祭の四日前、常波は山の上から、おじであろう男に連れられて村を出てゆくしずの姿を見送った。  しずが去った日も村はいつも通りで、海原も変わらず穏やかだ。凪いだ水面を、時おり魚が跳ねている。  親元を離れての奉公はつらいこともあるだろう。だが、これからのしずの暮らしが、どうかこの海のように安寧であるように。 「こういうのって、どこの神さんに頼めばええんやろうな」  空を見上げ、常波はひとりごちた。  海鳥たちは応えず、ただ魚を狙って次々海中へと飛びこんでゆく。
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