神様の資格 ~常波としず~

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 昨年の、荒れに荒れた夏とは違い、今年は嵐も少なく穏やかな海が多い。さいわい今のところ海での事故もなく、常波も心穏やかに日々を送れている。することが無いのは、平和だということだ。穏やかな海が運んでくれる幸せな時間は、うっとりするほど心地よい。  木陰に寝転がり、いきいきとした草の青い匂いに包まれて午睡を楽しんでいると、 「おおーい、常波ー」  どこからか、名を呼ばれた。  首をもたげ、声のありかを探る。  場所も、誰であるかもすぐに知れた。 「芽乃子(めのこ)やないか」  常波は起き上がり、衣についた草きれを払った。濡れた口の端と目をこする。  芽乃子は常波の旧い友で、ここから山をひとつ越えた先の町に奉られている神だ。  まだ眠気の抜けきらぬ常波の前に、芽乃子は両脚を揃えて、ふわりと降り立った。こざっぱりした薄青の衣に、普段は身につけない腕輪など、いやにめかしこんでいる。 「久しいねえ。息災かい?」 「ああ。お前も元気そうやな。なんの用や」 「これを取りにいった帰りさ」  芽乃子が懐から取り出したのは、件の神の資格についての書状だった。あの日以来、社の隅に捨て置いたまま、一度も手にしていない。 「あんまり気乗りしなかったんでねぇ。ずっとほったらかしやったけど、そろそろと思ってな。常波はもう取ったんか?」 「まだや」 「ふぅん。資格取るの、けっこう難しかったで」  芽乃子はちょっと得意げに鼻をツンと上に向けた。 「……なんてね。ほんとはちょちょっとお相手の話聞いて、書面を書かされただけなんやわ」  からからと笑い、芽乃子は首にぶら下げた木札を指にからげて振って見せる。 「これが、これからの神の証なんよ」  常波が無反応でいると、わざわざ寄ってきて、目の前へ突きつけてきた。  一寸角ほどの真新しい木札には、つゆ草の花が刻まれている。顕札(けんさつ)という名だという。こんな軽々しい木札一枚で、己が今まで成してきたことを置き換えられるかと思うと、妙に癪であった。 「でもね、あたしらみたいな土着の神はともかく、学業とか縁結びの資格なんてのは、取るのが大変らしいわ。もともとがご立派な神々ばかりやし、代わりを務めるのだって簡単じゃないんやろうねぇ」  ちょっと皮肉げに、芽乃子がくちびるを歪めた。 「ま、あんたは、そういうの嫌いそうね。でも早よぉ取っておいたほうがええよ。いつまでもごねてたって仕方ないでしょうに」 「いらん」  常波がぶすっとした顔でそっぽを向くと、 「なにさ、狛犬みたいな顔して。なんか嫌なことでもあったかい?」  芽乃子は聡い。 「別になんもない」 「へえ」  芽乃子がぐるりと辺りを見渡し、 「別に人があんたを疎かにしてるわけじゃなさそうやし……はーん、さては女か?」 「違う」 「違わんやろぉ」と芽乃子はニマニマする。 「そんなちんまいのに、いやあ、立派立派」 「お前かて、そんな変わらんやろ」 「あたしのほうが百年は年上や」  すました姿に不釣り合いなほどゲラゲラと笑い、芽乃子はひらりと衣の裾を翻した。 「そうかいそうかい。なら、そんなおさびし常波のために、これからはちょくちょく遊びに来たるわな」 「来んでええ」  拳を振り上げると、芽乃子のにたり顔が浮き上がる。  あっという間に小さくなる芽乃子の姿を見送り、常波はふ、と笑いをもらした。  ひさしぶりに大きな声を上げた気がする。  閉じていた心に風穴があき、抑え込んできた思いが滲み出てくる。  しずに会いたい。付喪神たちは口々に、会いに行けばいいだろうと常波をせっつく。だが、村を去った者をいつまでも気に留めているわけにはいかない。常波は海の神。しずを加護する者ではない。それでも会ってしまえば、心は何かしら動かざるを得ない。  だから、常波は動けない。ここにいるしかないのだ。  神目を持つ者がいなくとも、年一度の祭は一度も滞ることなく、常波神社は村人たちの心と祈りに満ちている。  せっかく採った木の実を余らせてしまうようになり、雨上がりの風になびく髪のくっきりした黒も消え、それでも夏は変わらず何度もやってきた。
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