神様の資格 ~常波としず~

1/18
前へ
/18ページ
次へ
 1  潮の匂いが変わった。海水が放つしめりけにはない、埃立つような匂いが混じっている。永い間この地にいた常波(とこは)にとっては、嗅ぎ慣れた匂いだ。  急いで戻らねえと――かごいっぱいに摘んだ桑の実を落とさぬよう、気を配りながら、常波は藪を上手に縫って駆ける。  社まで戻ってくると、屋根によじ登り、つま先立ちになって海原を見つめた。空はまだすっきりと青いが、海との境はどよんとした鈍色だ。海面は曇天を混ぜこんだように黒々とし、ざわついている。白く、毛羽立つように波は荒い。雨が近づいているのだ。海に漁船の姿はない。常波の出番はなさそうだ。少し安堵した常波は屋根の上で足踏みし、中にいる者に合図を送る。 「おおい、しず、村に帰らんと」 「――ううん?」  社の中からのんびりした声が返ってきた。 「春颯(はるはやて)が来る。はよう帰らんとずぶ濡れやぞ」  急かすと、戸が開き、中からひとりの少女が身を乗り出した。ぐんと首を亀のように伸ばして、空と常波を見比べると、 「今から山を下りても、間に合わんよ」  そう言い、また社のなかに引っ込んでしまう。  低く垂れこめた黒雲を見上げた矢先、ぱつ、と額に大きな粒が当たった。すぐに身体のあちこちに雨粒がぶつかりだす。常波もあわてて社の中に飛びこむと、しずの得意げな顔が迎えてくれた。 「ね、言うたとおりや」 「神さんの面目丸つぶれやな」  常波がおどけて言うと、しずがくすくすと笑った。  常波も笑いながら、しずの隣にあぐらをかく。桑の実を見せると、しずはわあと歓声を上げ、さっそくその熟れた黒い果実を頬張った。  古いむしろを何枚も重ねて作った、常波お気に入りの場所には、しずが浜辺の草を編んで作ったかごが重ねてあった。たった一刻の間に七つも拵えたようである。  手先の器用なしずは、穴の空いた投網を直すのもうまいし、小さい子らの、細くてさらさらの髪を結ってやるのも上手だった。「常波の髪がもっと長かったら、あたしが結ってあげるのになぁ」というのが、しずの口癖だ。  常波の髪はいつだって蛇のようにうねり、あちこち好き放題にはねている。真っ白なその色合いも相まって、まるで海のしぶきのように見える。まさに海の守り神にふさわしい様だと常波は気に入っているが、しずはどうも不満らしい。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加