Prologue

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Prologue

 二月十四日。渋谷のホールで、再デビューコンサートの初日が行われた。会場キャパは二千人で、チケットは即日完売だった。  手と指を温め、ストレッチをしながらここまでの道程に思いを馳せる。再デビューが決まった一年前の今日から環境は激変した。何より…この一年を支えてくれた千夏はもう、いない。  それが悲しく、切なく、虚しくもありながら、また演奏ができる喜びとプレッシャーも感じている。  公演の三十分前は楽屋に篭り、千夏と語り合う時間だ。スタッフにも誰一人楽屋に入るな、と伝えてある。  千夏の写真を取り出し、眺める。満面の笑顔は美しくて太陽のように輝いている…このときすでに病魔に犯されていた、なんて思えないほどに元気な頃だった。  再デビューの話をもらったあの日。嬉しさとプレッシャーの狭間で、ピアノを弾いて落ち着こうと店に向かった。そして…千夏と出会った。  あれから色々なことが進んだ。アルバム発売、ファンクラブイベント、取材、プロモーション、CM、映画のサントラ…一年前は暇を持て余していたのが嘘みたいだ。  千夏。全部の仕事に連れてくよ…来てくれるだろ?  ずっと歌ってね、と書いてくれたあの手紙への返事を、オレは歌で届け続ける。オレが奏でる音楽がこの世界に必要だと、それを奏でることが喜びだと思い出させてくれた…大切な人。  コンコン、と控え室のドアがノックされた。 「平井さん、本番十分前です。袖にお願いします」 「はい」  返事をして写真を内ポケットにしまう。 「行くか」  内ポケットの写真に服の上からそっと触れた。どんなプレッシャーも、千夏となら楽しめる…。  今頃客席のみんなは、オレの登場を待ってくれているのだろうか。理由も言わず、気まぐれにこの世界を降りたオレを…再び迎え入れてくれるだろうか?  舞台袖に移動し、息を整える。ステージ中央に置かれたグランドピアノの上には、千夏の別の写真を飾らせてもらってある。  ピアノを弾いているとき、いつも千夏の気配を感じる。不思議だよな…体はもうないのに、千夏の吐息や温もりをふと感じたような気がして嬉しくなる。そんなとき、オレの指は突然自由に、変幻自在にメロディを奏で始める。まるで…千夏が、オレの指を使って音で会話してくれているかのように。  開演五分前を告げるブザーが鳴った。幕を少しめくり、観客席を確認する。一番音響の良い席に寺田さんが座っているのを確認した。そして…一番前の席に、春陽さんも。  もう一度内ポケットの写真に触れ、心の中で話しかける。千夏、最高のライブにしような?  開演のブザーが鳴った。心臓の音がうるさいくらいに聞こえる。 「平井さん、お願いします」  スタッフに声を掛けられ、彼の誘導でステージに上がる。会場全体の照明が落ち、ステージ中心のピアノだけが浮かび上がる。足元を懐中電灯で照らされ、オレはステージの中央へと一歩を踏み出す。  千夏。オレのピアノは、歌は…ちゃんと、届いているかい?
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