第三話 秋

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第三話 秋

下草をかき分けて先を進む。後ろから自分よりも大きな足音がついてくる。パキン、と枝が折れる音がした。小さく息を呑む気配に俊参は振り返った。 「大丈夫?」 「お前は身軽だね」 体勢を崩して木の幹に手を当てた玄茲(げんじ)が、やや離れたところで苦笑している。 俊参は小走りで斜面を下りると手を差し伸べた。玄茲の大きな手が俊参の柔らかな手を掴む。熱が伝わると同時に胸に広がる温かな波を、俊参は目を細めるだけでやり過ごす。頭の中で尾を引く泣きたいような感情に、俊参は慣れ始めていた。 ぐいっと引っ張られて玄茲が近づく。ありがとう、と言われて手が離れる。途端に寒い風が胸に吹き込んだ。 「笠が開いて上向いたのが、食べられるやつだよ。似たのに毒のある奴があるから気をつけて」 風邪を引いてしばらく寝付いていた祖母が茸ご飯が食べたいと言い出したので、二人で採りに山に入ったのだ。俊参が背負ったかごには茸の他に栗なども入っている。 玄茲に教えながら慣れた足取りで歩く俊参。二人の間はまた少しずつ離れ始めている。 「慣れたものだ。……敵わんな」 「山歩きで勝っても嬉しくないよ」 俊参は玄茲に敵わないことがもっとたくさんある。振り返る俊参を玄茲は眩しそうに見つめて、やがて首を横に振った。 「こんなに美しい山の中を当たり前のように走り回っていれば感性も美しくなるはずだと思ってな。お前が詩を好きなのは当然だよ」 「――何の役にも立たないよ。誰かに読まれるほど上手いわけでもない」 俊参が入り浸る「庵の男」が貴人だとようやく気がついた父が、先日庵を訪ねたらしい。その場で玄茲は俊参の詩才を褒めてくれたらしいのだが、それを聞いた父は帰宅後いつになく厳しい顔で俊参を自分の前に座らせた。 『よりによって進士の前で、する話は学問でなく、政治でもなく詩だけか。お前はいつまで子供なのだ。遊んでいられる身分なのか?』 目立つほど才があるわけでもなし。 勢いで口を滑らせた父が、はっと上げた顔が忘れられない。親として、そこは言うまいと抑えていた本音なのだろう。狼狽する父を前に俊参は俯いて座っているしかなかった。それは図星であったから。 俊参とてやめられるならそうしている。月を見て花を見て風の吹き抜ける様を見て、自然と文字を探してしまう奇癖などなければ良かった。詩など作らなければ、家族の期待に応えられるのに、簡単なはずのそれができない。辛かった。 俯いた俊参に追いついた玄茲が、少年と青年の間を行きつ戻りつする俊参の肩を叩く。 「もうそろそろ受け入れろよ、俊参」 「何を?」 玄茲の形の良い目がこちらを見ていた。ドキドキドキ、と鼓動が早くなる。何で悩んでいるか分からなくなる。 玄茲はゆっくりと前を歩き出した。俊参は少し遅れて後を追いかけ始める。 「天に与えられたものは、自分で捨てることはできないんだ。自分はこういう形で生まれついたのだと、それを受け入れられれば、道は開けるものだ。それを受け入れられなくて自分を滅ぼす人もいる。いるというより、多いよ」 「天に与えられたなんて言うほど、大したものじゃない」 「じゃあお前、誰かに詩を詠め詠めと言われてそうやって苦しんでいるのかい?――違うのだろう?自然とそうなった。それは俊参がそういう形で生まれたからなんだよ。才の有る無しなんて話はしていない。生まれついて握っているものは捨てられないんだ。……誰だって捨てられないのだよ、俊参。お、あった」 玄茲が背を丸めて茸を摘む。 誰にも捨てられない。その一言が気になって玄茲の隣に立った。顔をのぞき込んでも穏やかな表情があるだけ。玄茲が茸をかごに入れる。じっと見つめていると、ようやく目が合った。玄茲の眉が少し下がった。 「何があったの、玄茲」 「敵わんな」 「玄茲さん!」 「戻ってこいとお上から声が掛かった」 どうも人手不足らしくてな、任期が終わるのを待たずに辞表を出した腑抜けに戻ってこいと仰せになる。流石に陛下のお名前を出されてはどうしようもない。 玄茲の言葉が耳を通り抜ける。何を言っているかが分からない。確かめたいのはひとつだけ。 「いなくなるの、ここから」 「……」 「いつ」 「今月中には」 その後、どうやって山を下りて家に帰ったのか、俊参は記憶がなかった。 玄茲(げんじ)が庵を出るまでの十数日はあっという間に過ぎた。 何かを残そうと足繁く通っても、二人でどんなに遊んでも、まるで砂が指の間から洩れるのを止めようと藻掻くような時間が過ぎるだけだった。 いつかのように露台で酒を飲み、肘枕で眠り込む玄茲の隣で俊参は池を眺めていた。水面には歪んだ月が佇んでいる。旅立ちは明日だった。言葉もなく杯を重ねる玄茲の隣で、祖母に持たされた菓子を口に運ぶことしか俊参にはできなかった。 風が吹き、葦がそよぐ。俊参の後れ毛も風に靡いた。寒いのだろうか、玄茲が寝返りを打って、自身を抱きしめるように腕を組んだ。 ――起こそうか。 手を伸ばした先でまたも玄茲が身じろぎをした。仰向けになる。その拍子に腕が解け、衣の合わせ目から胸板が覗いた。それを目にした途端触れたい、と思った。熱い息が漏れる。一度火のついた想いはどうにも止まらなかった。 震える人差し指が玄茲の肌に触れる。思ったより冷たいと感じたのは、自分の体が熱くなっているからだろうか。 中指が、薬指が、小指が、玄茲に触れる。より深く入り込み、ゆっくりと玄茲の衣を乱していく。うっすら盛り上がった胸筋を過ぎて、固い肋骨を撫でる。玄茲が呼吸をする度に手のひらが持ち上がる。 夜風が冷たかった。俊参の呼吸が乱れる。 抱きしめたい。この人を抱きしめて池に飛び込んでしまいたい。どこにも行かなくて済むように。 やがて腹筋を撫でる手が止まった。帯だ。その先には行けない。行ってはだめ。越えてはだめ。そう思いながら止められない手が帯の表面を撫で、やがてその下に。 「止めておきなさい」 俊参。静かな声で呼ばれた。 石化した俊参の視線の先で、玄茲は大きくはだけた己の腹を見て、帯の上に置かれた俊参の手を見た。最後に俊参を見る。 「止めておきなさい。苦しむぞ」 俊参は走り出していた。池に飛び込む意気地もなく、庵の中を走って外に出る。 そのまま門まで走って、生け垣に身を隠すように蹲った。 後ろから呼ぶ声が聞こえたが、追いかけてくる気配はなかった。 風が吹き抜ける。葦がそよぐ音だけが聞こえる。俊参は、のろのろと立ち上がって門から露台を見たが、すでに何の人影もなかった。 初めて会った時の、玄茲の姿を思い出す。露台ですっと顔を上げた彼の姿が、なぜ美しかったのかが、ようやく分かった。 ――あの人は、(おおとり)なんだ。 大きな、美しい羽を持つ水鳥。傷ついた羽を癒やしに水辺に降り立ち、やがて飛び立っていく存在。その目は水辺の葦などは思いつかないような遠くを見据えて、いつか大事を成す。そのように生まれついた人。 俊参の唇が解けた。湧き上がる言葉が口をついて出る。 月影を横切って鴻は古池に降り立ち、 傷ついた羽が水面を叩く。 春は夜風に身を丸め、 夏は熱暑に首を伸ばす。 やがて負った傷は癒え、 その瞳は目指す先を見据えるのみ。 鴻は月光を羽に受け飛び立つ、 葦はただ頭を下げて風に吹かれるだけ。 愛惜(あいせき)(うた)を聞くものは誰もいない。 ――さよなら、二度と会えない人。 最後まで言えなかった別れの言葉を、俊参はようやく音にした。
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