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第一話 春
あの人がやってきたのは桃の花が散り始める頃だった。
俊参は、祖母の家へ続く道を歩いていた。右手に提げた風呂敷包みの中には、祖母の昼食が詰められた箱が入っている。
俊参の家は商家で、本来であれば祖母も一つ屋根に住むはずが、祖父が亡くなってからというもの少しずつ浮世を離れ始めた老婆は、一人住まいをすると言って聞かない。手を焼いた俊参の父は、祖父が建てたきり持て余していた風流だが手狭な庵を、老母の終の棲家に据えたのだ。しかし、祖母は「あれは旦那の浮気のためのあばら屋」と言って寄りつかず、さっさと別の小屋を近所に仕立ててしまったのだった。三年前の話である。
そのようなことが積み重なり、徐々に離れつつある父と祖母の間をか細く繋いでいるのが俊参だった。昼食を運ぶ、大掃除をすると口実をつけては大きく人も多い屋敷を抜け出して、祖母の下に通った。目的は祖母ではなく、祖母が住む鄙びた里だった。孝行の皮を被ってやってくる些かも商いに向かぬ孫にその日伝えられたのは、予想もしない事実だった。
「庵を貸したぁ?!」
俊参の大声に、祖母は白いものの混じった眉を寄せた。咀嚼していたものを飲みこみ、口元を上品に押さえた後、低く声を出す。
「うるさいよ。お前の声で屋根が崩れる」
「ばあちゃん、いくらなんでも親父が怒るよ」
「ここはあたしが旦那の形見分けで貰った土地だ。あのあばら屋もそう。遊ばせておくよりは人に貸した方がいいだろう」
「いや、ばあちゃんが住めば良かっただろう……」
小柄ながらにしゃんと背を伸ばして椅子に座る祖母が、鋭い目を俊参に向けた。卓に箸を揃えて置くと、ひとつ軽い咳をする。
「誰があんな小屋住むかね。いいかいあの小屋はね」
「はいはい。曰くつきなんでしょう」
分かっていますよ、と俊参は首を縦に振る。
しかし、ここで話を止めてしまえば、父方から通っているだけで大事も聞き取れぬ役立たずと詰られるだろう。それはあまりに面倒だ。
きちんとした人に貸したのだよね、そうだよね?卓に思わず肘をついて身を乗り出すと、肘!と叱責が飛んでくる。孫を叱った祖母は再び居住まいを正した。
「あたしの人の見る目を疑うんじゃないよ。氏素性だって卑しくない、身なりも佇まいもきちっとしたお人だよ。――それに、なかなかのいい男だ」
「ばあちゃん……」
祖母につられて姿勢を正した俊参は、思わずがっくりと項垂れた。もしや騙されてはいないよなと不安を覚える。いち早く孫の不審を嗅ぎ取った祖母によって、即座に俊参は小屋から叩きだされていた。
「そんな目をするのであれば自分で挨拶して、年寄りを疑った心根を恥じておいで」という一言と「なかなかのいい男」へのお土産とともに。
祖母の家の裏側、ぐるりと巡らされた生け垣の向こうに、件の庵はあった。
庵には庭と呼べるものはほとんどなかったが、その代わりに鯉が泳ぐ池があった。池は竹林に接しており、庵と池を繋ぐ露台の足下には葦が生えている。
俊参は生け垣に設けられた門から庵をのぞき込んでぎょっとした。見慣れぬ人影が露台に直に座り込んでいる。心の準備もできぬままに目にした新しい住人の姿。いつもであれば不意の出来事に身を隠すところであるが、俊参は彼の横顔を見て、全身が痺れたように動けなくなった。
男は板張りの露台に胡座を組み、俯いて足下に目を落としていた。俊参の視界の中央に座る彼は、風が池にさざ波を生んだ瞬間、顔を上げた。その横顔が。
――なんて、美しい。
きちりと結われた髷は白い布に包まれている。黒い髪、しっかりとした顎、高い鼻。いや、造作が美しいのではないと、俊参は胸が震えるのを感じながら唇を噛んだ。違う。
向かい風を受けて少し細められた目が、やや前屈しながらもすらりと伸びた背筋が、組まれた太い足が、彼の持つ威風が、俊参を感動させたのだった。
不意に訪れた衝撃に青年の体は力を失い、手から土産が滑り落ちた。
「あっ!」
俊参は饅頭の入った袋が地に落ちた音でようやく我に返った。人に目を奪われるなど初めての経験で、動転のあまり饅頭を引っ掴んで逃げようとした俊参だったが、その背に思わぬ声がかかった。
「青年、ご用かなぁ?」
「えっ!?」
顔を上げると、露台に男が立ち上がり、こちらを見ていた。立ち上がると随分な上背がある。顔ははっきりと俊参に向けられていた。のんきな声かけだったが、俊参の喉が引きつったような音を出した。
「い、いや!ばあちゃ、いえ、うちの祖母が!!」
祖母、と彼が呟いたような気がした。俊参が慌てている間に男は庵に戻ると、すぐに玄関から出てきた。
「露さんのところのお孫さんかい?」
祖母の姓は露という。俊参が頷いている間にも男はさっさと俊参に近づいてくる。近くで見るとますます大きい。背丈は俊参よりも頭一つ高く、肩も広かった。見返す目が苦笑を帯びているような気がして、俊参は凝視をやめて慌てて俯いた。饅頭の包みを握り直す。
「李俊参です。祖母に、人に庵を貸したと聞いて来ました」
「どうぞ、入って」
男は徐玄茲と名乗った。
庵の中は狭く、必要最低限のものしかなかった。壁に丸窓があり、その下には長椅子がある。長椅子といっても四角い幅広の木箱の上に座布団が置かれているだけで、上に低い卓を置けば食卓に、布団を載せれば寝台になるというものだった。他には小さな書棚だけ。厨房には流石に物があるだろうが、主室は殺風景だった。
お茶を淹れてくると玄茲は厨房に消え、取り残された俊参は、ふと玄茲が座っていた露台に出た。池の水面がきらきら輝いており、眩しい。頭を振って足下を見ると、紙と硯が置かれていた。
――詩だ。
紙を拾い上げて文字を目でなぞる。初夏の水辺に鳥が降り立つ情景を詠んだ詩が、几帳面な字で書かれている。字は美しいが、書かれた詩は凡庸だった
「暇に飽かせて詠んではみたが、どうも纏まらなくてな」
戻ってきた玄茲が部屋の中から顔を出して言い訳をする。急に声をかけられた俊参は、しかし、紙に目を落としたまま動かなかった。カチャリ。玄茲が露台に茶器を置く。
「これ、鳥の羽が水を打つ、とか、叩くの方がいいと思う」
ここ。俊参が言いながら、露台に蹲って行間に字句を書き換える。申し合わせたように二人分の小声がぶつぶつとその一行を読んだところで、俊参は顔を真っ赤にしながら玄茲を見た。
――またやっちまった!
俊参は詩作が好きだった。褒めてくれる声も皆無ではないが、若いうちから風流ぶるなという意見が家族の大多数を占める。心惹かれる風景などを目にすると我を忘れて考え込んでしまう俊参を家族は持て余していたのだ。
三男とはいえ、いつかは家業の一部を継ぐ俊参が、仕事や学問以外で筆を執ると家族の表情が曇るようになった。だからこそ祖母の家に逃げ込んでは、こっそり詩を作っていたのだ。
「音の表現があった方がいいと思って……」
「“推敲”だな。なるほど、一言変えるだけで、うまいものだ」
不躾な振る舞いに呆れられると思った俊参の言い訳に、思わぬ一言が返ってきた。俊参が顔を上げると、玄茲は広い顎に手を添えて、何度も詩を読んでいた。伏し目が水面の反射を受けて、柔らかに光っている。やがて、彼が口を開いた。
――今度また俺に詠んでおくれ。
こうして、俊参は玄茲の庵を度々出入りするようになったのであった。
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