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最終話 冬
祖母が亡くなって丸一年が経った頃、庵を解体しようかという話が持ち上がった。結局家業には就かず、胥吏として役所の下働きをし始めた俊参は、反対しなかった。
玄茲はあの後数通手紙をくれ、俊参も何度も書き直した手紙を送ったが、いつしか玄茲の手紙の行間に忙しさが見え始め、それが苦しい自分に気がつき、やりとりは絶えてしまった。
外は雪が降っていた。祖母が死んだ家で、火鉢を引き寄せながら俊参は祖母が遺した手紙などを検めていたが、そこに、幼い頃に自分が書いた詩が束になってまとめてあるのを発見した。
そういえば祖母は、俊参の詩を読ませろとは言わないが、一度も反対しなかったなと思い出す。
下手な字を見ながら遠い昔を思い出していると、とんとん、と戸を叩く音がした。
――誰だ?
俊参がいたのはたまたまで、祖母の亡くなった今、この家は空き家だ。近所の人かなと気を取り直して戸を開けると、見たこともない厳めしい様子の中年の男が立っていた。
「そなたはもしや李俊参というのでは?」
「そうですが、貴方は」
「さるお方がこれをと」
上質な紙でできた封書を差し出されるが、いくら何でも怪しすぎる。狐狸の類いではないだろうな、と俊参は一歩後ずさった。すると俊参の怯えを知った男が太い眉毛を下げた。そうすると、妙に愛敬のある顔になった。
「そのお方、姓を徐という」
男の一言に、俊参は封書を掴み取ると破かんばかりの勢いで手紙を開いた。懐かしい筆跡を必死に目で追い、すぐに顔を上げる。
「今はどこにおられる!」
手紙には、中途半端な形の詩が一遍書かれていた。ぶつりと途切れた詩の末尾に一言書かれていたのは、俊参に向けた言葉。
――これ以上は推すも敲くも、皆目見当がつかぬ。
庵と聞いて俊参は駆け出した。相変わらず詩が下手くそ。そう罵らなければ涙がこぼれそうだった。
庵の戸を開くと、長椅子の上で火鉢を抱きかかえるように座る男がいた。美しい冠、上質な絹の衣。纏うものはすっかり変わっていたが、来訪者に笑いかける顔はちっとも変わっていなかった。
「よお」
まるで昨日も会っていたかのような短い声かけには答えず、俊参も椅子に腰掛けると、膝の前で玄茲の手紙を開いた。
「墨と筆は」
「あるよ」
玄茲が用意していたらしい文房具を手元に引き寄せ、俊参は詩の手直しを始める。数文字書き換え、数行を書き加えた。
俊参は玄茲と離れた後も詩作をやめなかった。やめられなかったのではなく、己に与えられた生き方なのだと受け入れることにしたのだ。
息をするように淀みなく手直しをした俊参は、何度かそれを口の中で読んで、改めて向かい合う男へ差し出した。だが、玄茲は受け取らない、俊参の伸ばした手を静かに見ている。
「玄茲さん?」
「いいのかよ、俊参」
「いいのかって」
「それを俺に差し出していいのか、きっと苦しむぞ」
苦しむぞ、と告げる玄茲の目は、あの夜と同じだった。しかし、澄んだ瞳を前に俊参は二度と恥辱に溺れることはなかった。
さらに前へと腕を伸ばす。紙の端が玄茲の膝に触れる。
「あんたも苦しむなら、二人で苦しむなら、それがいい」
「とんだ不義理をするかもしれんぞ」
「いいよ、後悔してくれるなら」
「新しい場所で、新しい社会で生きねばならん」
「いいよ。玄茲さんが隣にいるなら」
言い終わる刹那、玄茲の手が俊参の手を掴んだ。胸の中で何かが弾ける。腕を引かれて抱きすくめられた。顎を掴まれたと思ったら、小さく呼気が混じり合った。
感激に胸が引き絞られるように痛んだ。痛くて、熱い。まともに顔を見られなくて、まだ握ったままの手紙を玄茲の胸に押しつける。
「直してやったんだから、これ、読めよ」
「無理だ」
俊参の視界いっぱいに玄茲がいる。玄茲の目尻は赤くなって、下まぶたには涙が湧き上がっていた。
「前がぼやけて字なんぞ読めん。後で読んで聞かせておくれ」
「玄……」
硯が落ちた音がした。玄茲の熱い手が、俊参の帯を解いた音はそれにかき消され、二人の耳にしか残らなかった。
*****
とある尚書(大臣)にまで上り詰めた大官で、詩の上手で知られた者がいた。
ある時、若い官吏が大官へ尋ねて、詩の字句で悩んだ時はどうするのかと言った。
すると大官は笑って、
――葦に尋ねるようにしている。
と答えたという。
葦とは何か。それを今に伝える記録は、残されていない。
了
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