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エントランスに降りたところで、ガラスに打ち付ける雨に呆然とする。
豪雨。
文字通りの豪雨。
たとえ傘があったとしても何の意味もないほどの。
「うそ……」
激しく路面を打つ雨をガラス越しに見つめて立ち尽くしていると、「小山内さん」と声をかけられて、思わず肩が跳ねた。
「あ、ごめん。びっくりさせました?」
「い、いえ……」
肩越しに振り返ると、スーツの上着を腕に抱えた志賀さんが笑みを浮かべて立っている。
「ね、ほら。やっぱりすごい雨でしょ。ちょうど今、車を回してきたところだったんです」
「あ、あの、駅までで大丈夫です」
「駅って……電車も止まってますよ」
驚いたように目を丸くして言う志賀さんに、私も驚いて目を大きくした。
「え、止まってるんですか?」
「だってこの雨ですから。もう1時間半はこの状態で降り続けてますよ」
「あ」
「タクシーも捕まらないでしょうし」
「……そうですよね……」
それでも渋る私の様子に、志賀さんがいよいよ眉尻を下げて困ったような笑みになる。
「もしかしなくても、僕のこと警戒してますよね」
指摘されて何も言えず口を噤む。どんな自意識過剰か、って思われてるかも。
「そりゃそうですよね。さっき給湯室で初めて喋ったんだし、そういう警戒心は必要だと思います」
うんうん、と頷きながら彼が言うのに、私はついぽかん、と見返した。
それから、志賀さんは現れた時のように微笑んで続ける。
「誓って何もしません。家に送り届けたらすぐに帰ります。さすがにこの豪雨の中に放り出すなんてできないので」
もしかしてただのいい人なのか。
これ以上押し問答を続けて時間を取らせる方が悪いと感じ、ためらいながら頷いた。
「分かりました、信じます。よろしくお願いします」
それに。
こんな雨の中を帰れる自信もない。
車の中は芳香剤が効きすぎているわけでもなく、適度にふんわりと柑橘系の香りがした。
芳香剤というより、志賀さんの香水だろうか。
少しだけホワイトムスクを感じる。
「音楽でもかけましょうか……と言っても、僕と趣味が合うかどうかですけど」
そう言いながらいたずらっぽく笑った志賀さんが、パネルを操作して流れ始めた曲は私も好きなアーティストのものだった。
「あ、これ」
「知ってますか?小山内さん、結構マニアックですね」
豪雨のせいでかなりの渋滞だったけれど、共通の好きなアーティストの話で盛り上がり、気が付けば自分のマンションに着いていた。
「あ、ここで」
「ストーカーなんかしませんから、エントランスの前まで行きますよ。せっかくここまで濡れずに来れたんですから」
「……すみません」
大きく張り出したエントランス前の屋根の下に車を停めてくれた志賀さんは、ギアをPに入れてにこりと笑みを向けた。
「はい、到着。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした。ありがとうございました」
「いいえ、おやすみなさい」
車を降りた私ににこやかに声をかけてくれる志賀さんに、私も素直に笑みを向けた。
「はい、おやすみなさい。お気をつけて」
「ありがとうございます。早く中に入って」
言われるままにエントランスを潜って、私が乗り込んだエレベーターのドアが閉まるまで、志賀さんは車の中からずっと見てくれていた。
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