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1、午後のオフィス
「ああ、それちょっと待ってもらっていいですか?」
隣の営業部の後輩社員が、こちらが持ってきた資料一式を受け取りながら、書類の入っている封筒のタイトルだけを見て、そう言ってきた。
特に語気を強めてでもなく、実にさりげなく、こちらの顔もろくに見ずにそう言うと、彼は1つ上の先輩社員の席へ行って、その社員とぼそぼそ話していたが、すぐに戻ってきて、
「はいわかりました。お疲れ様です」
と言った。
何がわかりましたなんだか、さっぱりわからんが、自分は上司からこの書類を営業部の課長に渡してこいと言われただけだから、まぁいい。
彼がわかったなら、了解したということであって、自分の役回りはもう終わりということだから。
昼ご飯に社員食堂で食べたカツ丼が中々美味かったのだが、食堂のおばちゃんがおかわりオーケーよと言ってくれたので、無理して2杯も食べたため、今は随分胃もたれがする。
ガッついて食べるとろくな事は無いなぁ、と自分の意地汚さを呪いながら、所属の課のフロアに戻ろうとすると、いきなり大声で自分の苗字を呼ぶ声が、後ろから聞こえた。
振り返ってそちらを見ると、そこには今向かったばかりの営業部の課長の姿があった。
「ちょっとこっち来い!」
課長は荒っぽく手招きしていたが、堪りかねたのか、どんどんこっちに自分からにじり寄ってきた。
「はい?」
「はい、じゃねえだろ!お前、あの書類俺に渡せって言われて持ってきたんじゃねえのかよ!ええ?!だったら、何で俺に直接渡さねえんだよ、コラ!どういう教育受けてんだこの野郎!」
課長はこちらの胸倉を掴まんばかりに、さらににじり寄ってきて、何度も顔面にバンバン唾を飛ばして怒鳴り続けた。
「す、すいませんでした!でもあの営業部の方が受け取られたので…」
「それはお前が無理やり渡して、とっとと勝手に帰っただけだろ!言い訳してんじゃねえよ!お前、ちゃんと手渡すくらいの礼儀も知らねえのかよ!さっき部長がいたんだよ。そしたらお前が、下の者に渡して帰るから、"君は嫌われてるみたいだね、若い社員に"って言われちまったじゃねえかよ。お前、馬鹿野郎、空気読めよ!部長が見てたろうが!そしたら何で俺を必死に探さねえんだよ!これで俺は若い社員や部下に信頼のない上司なんて烙印を押されたらどうする気だよ!てめえみたいな奴のせいでなぁ、俺の長年の努力も苦労も全部パーじゃねえか!わかってんのかよ、おい!何でお前は空気が読めないんだよ!そういうよ!」
営業部長が何処にいたのかは、全くわからなかったし、意識もしていなかった。
だいたい営業部長が何で関係あるのかもよくわからなかったが、どうやら課長の立場が悪くなっているようだった。
しかしあの後輩社員の"待ってもらっていいですか…"は、じゃあ一体何だったんだ?
なんだか状況がよくわからなかったが、あまりの課長の剣幕に圧倒されて、ただひたすらこちらは謝罪するしかなかった。
そもそもよく自分の課の課長なんかも"空気を読むように"とか、たまに言う。
この課長の怒りはよくわからんところもあるが、どうやらあんまりこっちが空気を読めていないのかもしれない。
これはサラリーマンにとっては致命的なことなのだろう。
「だいたい最近の若い奴は、こそこそこそこそしやがって!草食男子だか何だか知らねぇが、要するにやる気も根性もろくにないってことだろうが!草食動物なんぞ、だいたい戦力になんかならないんだよ!なんだお前!ガリガリじゃねえかよ!草食動物ならよぉ、空気ぐらいちゃんと読め!わかってんのか?お前みたいに使えない上に空気もろくに読めない奴は、ホント最低なんだよ!とっとと辞めちまえよ、お前!今のこの不況期に、お前みたいなのを使う会社なんかどこにもねえんだよ!」
妙に何も感じなかった。
ただ、ああ、うちの親父みたいなことをまんま言うなぁ…
それにうちの上司の言うことをこれに混ぜたら、だいたいこんな感じなんだろうなぁ…と思っただけだった。
そういえば学生時代にバイトをしていた時も、
「お前みたいに使えない上に空気もろくに読めない奴」って言い方して怒鳴ってる社員さんがいたなぁ…
バイトの人間はみんな一度はそう怒鳴られてたな…と、ちょっと昔が懐かしくなってくるほどだった。
「どうもすいませんでした!」
同じセリフしかお前言えねぇのか!ってツッコミは何とか無事なかった。
だが…。
その時、いきなり現れた男たちは、目の前の営業課長を、いつの間にか取り囲んでいた。
「なんだお前ら?!」
課長はすぐに怒鳴ったが、自分にも何が起きたのかよくわからなかった。
「ちょっと、こっち来てもらっていいですかね?」
4人のうちの1人がそう言うと、4人はいきなり課長の腕を掴んで、どこかへ連れて行こうとした。
4人がかりなので、課長はどんどん連れて行かれ、しばらくすると奥にある小会議室の中へ連れ込まれてしまった。
何?
何なの?
さっぱり訳がわからなかった。
だいたいあの4人は何だ?
というか誰なんだ?
恐る恐る小会議室の方に向かって歩を進めてみると、当初は課長の怒鳴り声が聞こえてきたが、しばらくするとぼそぼそと話す声だけが微かに聞こえるようになり、課長の怒鳴り声はいつの間にか聞こえなくなった。
小会議室のドアを、音がしないようにこっそりと開けた。
勿論、ほんのちょっとだけ。
中では相変わらず4人の人物が、課長を取り囲み、何やら説明してるようだった。
課長の顔色はさっきまでとは随分違って、どこか青ざめているようで、黙って4人のうちの1人の説明を恐る恐る聞いているようだった。
「空気を読め、とあなたは先ほどおっしゃっていましたが、しかしあなたが発しているその空気が先に問題なのです。空気を読むことも大事ですが、おかしな空気を発散することも大問題なのです。あなたは会社の業務遂行のほとんど妨げになるような空気しか発していないのです。あなたの空気を読まなければならないために、あなたの部下や同僚たちは著しく業務を行う上でのマイナスコストを抱えています。先ほど廊下であなたは他の課の若い社員まで捕まえて、自らの空気吸入の押し付けを強要していましたよね。あれはあなたの権限の及ばない社員に至るまで業務妨害を行っている、悪質な会社の利益損失を招く背信行為であり、わが社の業務妨害禁止条例という項目に著しく反する行為となります。よってあなたは、このままでは減俸では済まされない、さらなる厳罰が与えられる可能性があります。本日は初めての勧告ということで、今後一切、会社内で部下及び同僚に、無理やりな空気を読めなどという命令をして、悪臭を社員に吸入させ、会社内における業務妨害を行わないように注意しておくに留めておきます。しかしながら今後もし、1回でもそのような空気を私物化した、悪臭放出による業務妨害行為または発言を行った場合には、即刻処分の対象となりますから、どうかお気をつけください。あなたはご自分の課やフロア、ひいては会社の空気というものを私物化し、それを汚染するという完全な会社への背信行為と、犯罪的な業務妨害を行い続けてきました。この罪はとても重いことを肝に銘じてくださいますよう、勧告しておきます。
またあなたは、わが社がそれなりの経費を使って空気清浄機を各フロアに備え付けているのに、その経費を無駄にする環境破壊者としても、厳しく咎められなければなりません。あなたの行っている事は、喫煙所が設けられているのに禁煙地域でタバコ類を吸う空気汚染どころでは済まないくらいの、悪質な公害問題の域に足しています。そのような幹部社員を許容する事は断じて出来かねますので、どうぞよろしくお願い致します。こちらが今申しましたことに了解されましたならば、この書類にサインをお願い致します」
課長は青ざめた上に、面食らったような顔をしていたが、取り囲んだメンバーの威圧的な凝視に押されて、素直に書類にサインをしたようだった。
用件が済んだのか、一団が小会議室を出ようとこちらに向かってきたので、すかさずドアから離れて隠れたが、一団は無表情なまま、ドアを開けて小会議室を出て行き、スタスタと歩き去ってしまった。
残された課長は驚いたような表情を浮かべてはいたが、力を落としてドアの方へと歩いてきて、その後すごすごと、自分の部署の方に戻っていったのだった。
……一体全体、何が起こったのか、まるでよくわからなかったが、どうやらにわかには信じがたい事態が起きた事は確かだ。
どうもあの一団は、空気を読めない者を罰するのではなく、悪い空気を社内で垂れ流す者を処罰する者たちらしい。
しかも勝手にやってるわけではなく、どうやら会社公認らしい。
そんなセクションが、いつの間にか出来ていたらしい。
でも空気をあんまり読めない者が世間で怒られる事はよくあっても、空気を出してるのがお前で、それが悪臭だから取り締まる、なんて話は聞いたことないぞ…。
だが今見た一団は、まさにそういう取り締まりをする部隊だったし、悪臭を発散する上司をこそ問題にしていたではないか…。
その後、余計なことばかり考えてしまって、ろくに仕事が手につかないままその日の業務を終えて、そそくさと帰宅したが、家に帰ってからも例の一団のことばかり考えさせられた。
いや…考えさせられたと言ったって、何も考えなんかまともに浮かんでおらず、ただひたすら不思議な気分になっていただけなのだが…。
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