第1話 東京悪魔と春の風物詩

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第1話 東京悪魔と春の風物詩

 東京という街は日本の首都である。日本一の大都会であり、東京には様々な文化やテクノロジーや価値観が人間共の内臓のように数多く存在している。巣鴨に集まる老人たち、新宿をせわしなく行き交うサラリーマンやOL共、そして渋谷の忌まわしき女子高生共。老若男女の人種が、俺の狭い行動範囲の中でもでかい顔をして生きている。皇居と東京タワーと東京駅と渋谷109は全く別のコンセプトと目的をもって造られた建物であり、巣鴨には氷川きよし、原宿ではきゃりーぱみゅぱみゅ、後楽園では読売ジャイアンツと別々のカリスマがいるように。  その様々な要素をホモサピエンスの内臓のように隙間なく詰めたスフィンクスの額ほどの狭小な地は、そこに住んでいる当事者以外から見れば魅力を凝縮した土地に見えるのだろう。だが俺にとっては心底うんざりするこの世の地獄である。  悪魔の苦手なもの。十字架、聖水、お祈り、銀の銃弾。この辺りは定番だろう。しかし、意外と知られていないものがある。そう、鉄によって作られた輪である。  魔王である父から受け継いだ悪魔の弱点の幾つかを持つ俺は、人間である母が俺を産んだ場所により、巨大な鉄の輪により描かれた聖なる結界、即ちJR山手線の線路に生まれながらに囲まれ、東京の中心部にぐるりと輪を描くこの範囲から外に出ることができない。つまり俺は東京から一歩も外に出たことがない東京悪魔なのだ。母を例外とする愚かで哀れな種、人間にはない弱点だが、この弱点こそが俺が悪魔である証左であり、結界が破れれば悪魔の力が目を覚まし、俺を29年にも及ぶ年月封印した東京、そして地上を蹂躙できると信じて生きてきた。  毎年、日本の各地から若者たちはその魅力を追って東京へやってくる。東京には学、美術、芸能、技術、出会い、仕事、全てがあるはずだ、と夢を見て。テレビをつけて寝転がれば、ドラマでは田舎の若者たちは東京に行くだけで英雄のような扱いを受け、夢をかなえるための階段をいくつか上がったかのような期待と達成感に満ちたいい顔つきをしている。  笑止。  東京に来て、暮らすことで何かが達成されるということなのか。東京は華やかな街、東京はレベルの高い街、東京はあこがれの地。もはや、東京に対する認識は、修行に励む仏教徒が目指す極楽浄土のような虚像の趣さえある。かのような虚像としての東京が真であるのならば、東京で生まれ、東京で育った者は生まれつき華やかでレベルが高い人間であるということになる。天は人の上に人を作らないのではないのか。地方で暮らす者が上京することで夢の一つをかなえるのならば、東京で生まれ育った者はどこを目指せばいいのだ。生まれつき一つ夢を持たないというのか。 『こんばんは! 高知県からやってきたアーティストのタマゴのしげるです! 毎週金曜日の夜に池袋で路上ライブをしています!』  商品の品質を表示する値札のような厚紙をギターケースに立てかけ、その辺の畑でも掘り起こせば5、6個は出てきそうな芋のような若者がアコースティックギターを持って歌を歌っている。 「東京は貴様のような者が来るところではない。郷里と東京の最低賃金の違いを見てから出直すが良い愚か者。耳触りの良い言葉ばかりを並べおって」  舌打ちをして独り言をつぶやき、芋のような男に詰め寄る。 「貴様、今の曲は、自ら作ったものか」  芋のような男は相手がたとえ悪魔と言えど、自らの歌に反応があったことがうれしかったのか頬を紅潮させている。 「はい! 昔作った曲ですけど、自信作で」 「悪くはないぞ。『自由は逃げやしない』という文句は特に悪くない。他者が既に歌ったものを自分で歌い直し、電子上の架空演奏場で共有しただけでアーティスト気取りになっている愚か者とは一味も二味も違う」 「あ、ありがとうございます」 「無節操なまでにありとあらゆるカバーが許され、その敷居がかのように低いのであれば、俺だってかつての文豪共の名作を一言一句変えずにカバーすることで一石を投じてくれようぞと思っていた。それ故に、自作のものを発表できる貴様の能力は尊い」 「ありがとうございます!」  しげるは腰に折り目がついているかのようにお辞儀をし、感謝の言葉を述べた。 「僕、この春に地元から東京の大学に通うために出てきて、初めて応援されました! いつから東京に住んでるんですか、えぇーと」 「我が名はヴェルフェゴール。青山(あおやま)ヴェルフェゴールだ。ヴェルと呼ぶがよい。生まれてこの方、東京から一歩も出たことがない」 「都会っ子なんですね! てっきり外国の方かと思ってましたが、日本語もお上手ですし」 「今に貴様も慣れる」 「ありがとうございます。あの、僕は毎週金曜日にここに来るので、また来てください」 「記憶の片隅くらいには留めておいてやってもよいだろう。精進せい」  あの時の俺は何か血迷っていたのだと、今ならそう確実に言うことが出来る。  砂糖に群がる蟻のように、翼を手に入れた者が過信によって太陽を目指すように、毎年東京には多くの若者共がやってくる。そして翼を溶かされて地に堕ちるようにまた元の場所へと戻っていく。それは毎年巡る季節の中で繰り返される風物詩のようなもの。気にした俺が馬鹿だったとしか言えないだろうが、何か変わったことをしてしまってもある程度の失敗は春だからしょうがないと許されてしまう春のその性質を表した〝青春〟という言葉も確かに存在する。 「来ぬではないか」  新生活という言葉を耳にする機会が少なくなり、次の衣替えのことも念頭に置き始める初夏になると、池袋の路上で芋くさいしげるの歌を聞いてやる機会は、世間に漂う若い活気と同じように少なくなった。 「うつけが」  久々に顔を見たのは、6月も半ばに差し掛かる梅雨のことだった。約束をすっぽかされたような気がして、俺は偶然しげるをみかけた飯田橋の路上で腹を立てる羽目になった。 「あのままでは俺は主人の帰りを待つ犬っころのようではないか。貴様は俺をあのまま池袋の忠悪魔ヴェル公にしたかったのか。悪魔に忠という言葉は似あわぬ。いけふくろうがある限り池袋に待ち合わせの名所二つといらぬ。そもそも、もし俺を路上で朽ち果てさせるようなことをしたのならば、貴様はただではおかぬ。己の所業を詫びて許しを請う声すら絞り出せないほど痛めつけ、しかる後貴様は地獄で自らの罪を悔いることになるだろう」 「悪魔ですか。そういう人、結構いますよね。自分で悪魔とかいう人」  久々に顔を見たしげるは上京したての当時とは、ノアの大洪水の前と後の地上ほどに変わり果て、芋くささは間違った方向への垢抜けに変貌を遂げ、大学で彼をそそのかす悪い知人が出来たことは疑いようもなかった。地方から東京で暮らすことになった若者たちがこういう変化を遂げるのは、子供の背が伸びることと同じこと。もはや驚くまでもない。 「そういう、北朝鮮のアナウンサーみたいなしゃべり方する人。ネットとかにいますよね」 「俺がその程度のことで本気で腹を立てると思っているのか。愚かなり、小僧。貴様、最近どうしているのだ。歌は歌わぬのか」 「バイトとか、サークルとかで忙しいんで」 「そうか」  嘲笑うかのような微笑みを浮かべ卑屈な目つきを俺から視線を逸らすしげるを見ていたら、だんだんと俺の心に怒りが湧き始めた。 「それが貴様の夢の叶え方ならば、好きにするがよい田舎者」 「そうやって押し付けないで下さいよ。東京に来る田舎者が、みんな夢を追った純朴な若者とは思わないでください」  不覚ながら、魔眼から逆鱗が落ちる核心をついた一言だった。 「そうであったな」  たかが人間の若造一人に、己の認識の甘さを改めさせられるとは思ってもみなかった俺は、自分への怒りから踵を返しその場を立ち去った。  その次にしげると会話をしたのは、年も明け、寒さも移ろいで来た3月の夜の新宿駅の高速バス乗り場だった。 「ヴェルさんですか」 「いかにも」  大仰な荷物を携え、昨年の春の彷彿とさせる純朴さがありながら、何かを枯らし果たした喪失感をも感じさせる面構えていた。 「しげるです。覚えてますか」 「人間共の顔などいちいちこの俺が覚えているとでも思ったのか? 貴様のような者が俺の記憶の一角を自分が占めているであろうと考えること自体が傲慢だ」 「すげぇ、ヴェルさんはキャラがブレませんね」  荒んだため息をつく。 「高知に帰ります。大学クビになっちゃって。やっぱり、東京はヴェルさんの言うとおり僕みたいな田舎者が来るところじゃなかった」 「だからどうした。怖気ついたか」 「はい。でも、ヴェルさんが最初に聴いてくれたことは忘れませんから」 「フ、勘違いをするな。貴様程度の人間など、東京は余り過ぎているほどもいる。俺は春という季節の特性と戯れただけにすぎぬ。思い上がるな。東京には毎年、貴様のような若造が嫌になるほどやってくる。だが東京の人口が毎年その分増えるわけではない。それは東京という街に打ちのめされ、あるいは失望したものが尻尾を巻いて逃げ帰るからだ。貴様もそのうちの一人に他ならぬ。忘れるな、貴様は特別な人間などではない。貴様も所詮、俺が毎年幾度となく見てきた愚か者に過ぎぬということを。貴様らの希望と挫折など、俺にとっては春の風物詩でしかない。東京は、東京に来ただけで何かを達成したような気になっている愚か者の来るところではない。驕るなよ、田舎者。東京は腕試しの場ではない。常に後がない本番の街であるということを頭に叩き込んでおくがよい。貴様には、東京に挑む資格も覚悟もなかったのだ」 「まつ毛一つも動かさないなんてヴェルさんは本当に悪魔みてぇだ」 「貴様はもうよい。俺に殺されないうちに、さっさとバスに乗ってしまえ。東京から逃げ出して帰ることが出来るのなら、逃げ帰るがよい。東京で生まれ東京で育った者は、逃げる場所がないのだぞ」  若者の安心したようなため息は、まだ肌寒い東京の空気に触れて白く濁った。  だが時期に息も濁らなくなる。東京を妄信した愚かな風物詩共を引き連れ、東京にも春がやってくる。
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