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C1:6/17:栃木県居種宮市『ビルから脱出せよ!』 2:異形の襲撃
「気のせい、だと良いんだがな」
大根田達は懐中電灯を点け、手摺に掴まって非常階段をそろそろと降りていた。このビルの非常階段は屋内にあるが、廊下と同じく窓が無く真っ暗だった。
しかも建物自体が傾いた所為で、階段の勾配が変わってしまっていた。
ジグザグに降りていく階段は『下り』と『登り』の繰り返しになったのである。
先頭は『とかちちゃん』こと十勝花江。最高齢の六十二歳だ。大根田と同じく小柄で、ずんぐりとした彼女は全く臆することなくズンズンと進んで行く。ついで他の社員達、中里、そしてしんがりは大根田と野崎が務めていた。
「熱気の事か?」
大根田は野崎の呟きに、声を潜めて聞いた。
「ああ。それと、お前が感じたエレベーターの気配もだ」
野崎はそう囁くと、足を止めた。大根田も足を止める。
「なあ、ねだっち……何というか……異常すぎないか?」
野崎の言葉に、大根田は頷き、先行している一群に声をかけた。
「とかちちゃん、ちょっと先行っててくれ。すぐに追いかけるから」
階段の手すりにまたがっていた十勝は親指を立て、そのまますーっと滑って下に降りていった。おおーっと中里が歓声を上げ、スマホを向け、アンコールをした。
今更スマホで録画を始めた彼女は時折、皆さん、今の気分はどうですか? とインタビュアーのような事をやって場を明るくしていた。
わざわざ暗くなるような話題を聞かせるべきではない、と大根田は考えたのだ。
「それで、異常とは?」
大根田の質問に、野崎は学生の頃と同じく不良座りをすると、指でくいくいっと座るように促してきた。
「なんだか懐かしいな。校舎裏みたいじゃないか」
「お前まで中里君みたいな事を言うなよ。まあ、こういう時は平常心が大事かもしれんが」
野崎は一群が踊り場を過ぎたのを見て、やや声を大きくした。
「まず、あの地震だ。ありゃあ、おかしい。縦でも横でもない変な揺れ方だっただろ」
「ああ。長さもおかしい。五分――いや、もっと長かった気がするな」
野崎は頷く。
「しかも、俺は天井付近まで浮いたんだ。他の連中もだ」
「俺もだよ。漫画や映画でエレベーターが落下するシーンみたいだったな」
「まったくだ。俺はビルが倒壊したと思ったんだ。だが、傾いただけときた」
「窓から外を見たか?」
野崎は唇を舐める。緊張した時に見せる癖だ。
「……見たよ」
「その様子だと酷いらしいな。建物がかなり逝ってるのか?」
野崎は大根田の顔をじっと見つめた。
「……俺は混乱している。そういう前提で聞いてくれるか」
「なんだ? どういう意味だ? まさか――津波を見た、とか言いださないだろうな」
栃木は海なし県であり、一番近い海岸まで大体百キロ前後である。
野崎は首を振った。
「水じゃない。その…………なんと言うか……」
「なんだ、お前らしくない。はっきり言えよ」
ガチャリと扉を開ける音が遠くから聞こえた。
「あ、二階のエステの皆さ~ん! 御無事だったんですねえ! お、三階と五階の人達も! いや、皆さん、よく御無事で――」
「野崎さんとこの! ダメ、声を抑えて――」
中里の明るい声と押し殺したような声が下から聞こえてくる。
どうやら下の階の人達と合流したらしい。大根田は少し中腰になった。
「……もしかして、死体がたくさんあったのか?」
野崎はゆっくりと首を振った。
「崖だ」
「…………は?」
「崖が見えたんだよ。恐ろしく高い崖が……前にある廃デパートの向こうに」
大根田は目を瞬き、それは一体、と言いかけたその時、鋭い悲鳴が下から聞こえてきた。
野崎と大根田は手摺に飛びつき、吹き抜けから下に懐中電灯を向けた。
きゃあ、わあと悲鳴が上がり、ばたばたと足音が木霊する。
「どうした!? おい、中里君! 十勝さん! 何かあったのか!」
野崎の呼びかけに、中里の叫び声が帰ってきた。
「しゃ、社長! なんか大きいのが! うわっ、あぶなっ 何これ――」
がしゃんと金属がひしゃげる音が響く。
「おい、何が起きて――ねだっち、まだ行くな!」
野崎の制止よりも早く、大根田は階段を飛ぶように降りていた。すると踊り場に自社の五人が転がるように上がってきた。その先頭の遠藤文代が息を喘がせながら膝をつく。
「遠藤さん、何が――」
「な、なんか大きくて黒いのが襲ってきて――」
「襲って――はい?」
「す、凄い爪で、壁をガリガリ、え、え、抉って――」
喘ぐように言う遠藤。大根田は他の四人に目を向けた。
「大きくて黒い――生き物? 犬か何か? それとも猪とか……」
四人のうち、一番若いバイトの佐藤正芳が頭を振った。
「ち、違います! ひ、人っぽい『なにか』ですよ! ばかでかい、真っ黒い――」
ばん、がしゃん、うわあと悲鳴。大根田は吹き抜けを覗きこむ。
暗い。誰かの懐中電灯の光が滅茶苦茶に壁を照らし、一瞬大きな人影が壁に映った気がした。
「変質者……いや、誰かの影を見間違えた、ってことは?」
長髪で色白の伊藤君子が腕を懐中電灯で照らした。
少し血の滲んだ、大きなみみずばれが4本あった。
大根田は、それを一瞥すると、踊り場の端にあった掃除用具入れに飛びつき、モップを取り出すと、それを脇に抱えて下に向かう。
「ねだっち、そこを動くな! 今俺が行くから!」
上から野崎の声が聞こえてくる。
待つべきか。
待つべきなのだろうな。
がりがりべきべきっと金属が『掻き壊される音』がして、大勢の悲鳴が木霊する。
大根田の足は勝手に動き続けていた。
なんてこった、興奮しているのか。
年も年なんだし、冷静になるべきだ。
俺が行ったからといって、事態が好転するわけでもなかろうに。
頭の片隅で、そう言い続ける自分も本気で足を止める気は無いらしい。
最悪なのは――少なからず、ワクワクし始めていた事だった。
「中里君! だ、誰か! 皆さん無事で――」
懐中電灯が何かを照らした。
大きな、クリーム色の金属片。
これは――非常ドアの残骸――
懐中電灯をゆっくりと左に向ける。
ねだっち! と野崎の声と足音が上から向かってくる。
「大根田さん!」
中里の声――懐中電灯を向ける――丸い光の輪の端に壊れた扉――その向こうから覗く中里の顔――
何かが動いた。
上から来ている野崎ではない。
大根田の左、下り階段の闇が動いたのだ。
懐中電灯を向ける前に、大根田は直観した。こいつは、さっきエレベーターの透間から覗いていた奴だ、と。
丸いライトの光に照らし出されたのは、重油のように真っ黒い巨体であった。二メートルはある身長、骨ばった巨大で長い手、指先は鍵爪のように鋭く折れ曲がっている。
目や鼻、口のような物は無く、ただ複雑で奇怪な模様のような物が、体表にびっしりと浮き出て、ずるずると流動していた。
頭部からは、ドレッドヘアのようなこぶ状の髪のような物が無数に垂れ下がり、それが体表に当たる度にさらさらと音を立てている。
「な、なんだこいつは……」
大根田に追いついた野崎が絶句する。
と、影の者は大根田に向けて両手を伸ばし、甲高い声を上げた。
かーっ、ともけーっとも聞こえる、鳥の鳴き声のようなそれは壁を震わした。中里のうめき声が聞こえ、うっと野崎が一歩下がる。
だが、大根田は懐中電灯を口に咥えると、モップを両手でゆっくりと握り直し、正眼に構えた。
正眼――中段の構えは大根田のざわつく心を沈めていく。
恐ろしい。
どう見たって、人間じゃない。
しかも、どうやら敵意があるらしい。
だからといって、逃げれる状況ではない。
なら――やるしかないのだ。
だが――ああ、最悪だ。
頬が少し緩んでいる。
夢が――夢が叶いそうだ。
影の者は大根田の決意や葛藤、喜びを知ってか、不意に階段を駆け上がり、大根田に襲いかかった。
唸りをあげて巨大な手で掴みかかる。
大根田は左から来る腕を、思い切り打ちすえ、勢い半歩下がる。思わず、小手と言ってしまいそうになり笑みが増し、懐中電灯が零れ落ちそうになる。
影の者は悲鳴を上げた。
野崎がさっと懐中電灯を向けると、影の者は腕を抑え、苦しんでいるようだった。
腐った肉が焼ける臭い、としか言いようのない不快な物が漂ってくる。
「ねだっち、お前――」
大根田は、自分が握っているモップを見つめていた。
モップの中程より先が、鈍く赤く光っている。
熱気が――
はっとして自分の手を見ると、ゆらゆらと陽炎のような物が湧きたっていた。
「ねだっち!」
野崎の叫びと同時だったのか、影の者は大根田に襲いかかった。
ほぼ同時に大根田は腰を落とすと、モップを右手で横に薙ぐ。影の者が再び悲鳴を上げる中、両手でモップを握り直すと、そのまま上段から真っ直ぐに振り下ろした。
鈍く重い手応え。
下顎を動かして懐中電灯を向ける。
丸い光の中、影の者はゆっくり膝をついた。そして、頭部と思われる場所からゆっくりと二つに裂け始めた。
しわがれた声のような物を出しながら、影の者はひらひらと紙の燃え滓のように散り散りになり、やがて消えていった。
「た、倒した……ってことか?」
呆けたような野崎の声に、大根田はどっと長い息を吐き、よだれにまみれた懐中電灯を口から外した。
まだ赤く光っているモップの柄の部分は、少し歪んでいた。
「み、みたいだね…………いやはや……」
「す、すっげえすよ、大根田さーん!!」
半壊したドアから中里が歓声を送った。
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