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C2:6/17:栃木県居種宮市『自宅に向かえ!』 1:帰宅パーティ
「……何だこれは?」
大根田はそう呟くと呆然と立ち尽くした。
目の前にあったのは崖としか呼べない物だった。
野崎派遣会社が入っているビル、その通りを挟んだ反対側に、『アルコ』という大型デパートが入っていたビルがある。
時代の波には勝てず、今は十二階建ての廃墟となったそのビル――その向こうに巨大な土の壁があった。
幾重にも重なった色の違う地層。その隙間から顔をのぞかせる大小様々な石。
大根田の視線がゆっくりと上がっていく。
崖――いや、隆起した?
さっきの地震で?
どれだけ大きな地震――
大根田の動きが止まった。
おかしい、とは思っていた。
何かがおかしい。
視界がおかしい。
認識がおかしい。
常識がおかしい。
何もかもがおかしいのだ。
「……はは、嘘だろこれ」
崖の幅は廃デパートと同じくらいだ。
だが、高さは違う。
遥か上方まで続いている。
それも十や二十メートルなんて生易しい高さではないのだ。
山を下から眺めているようなものじゃないか、と大根田は呆然とした。。
「……な、あっただろ……」
野崎に肩を叩かれ、大根田は乾いた笑い声をあげた。
「あったなぁ……」
「ねだっち、見てみろって」
野崎はにやにや笑いながら、手をゆっくりと横に動かす。
勿論大根田も気づいてはいた。
だが、認めたくなかったのだ。
異常な事になったと頭で理解したつもりだったが、『現実』はそれをはるかに超えて来たのだ。
「崖、いっぱいあるなぁ……」
右斜め前方の寂れたアーケード街、カシオペア通りの向こうにも崖があった。こちらはやや斜めに傾ぎ、マンションにもたれかかっていた。
その奥にも、更にその奥にも、崖はあった。
「それと、あっちだ――」
野崎は右を指差す。
大根田達が今までいたビルの右側には北関東最大の神社、三荒山神社がある。
鉄製の巨大な鳥居がたつ石畳の広場から、小高い丘の上に作られた社殿へ向けて石階段が続くのだが、ここから見る限り、全く無事なようだった。
流石、霊験あらたか、と感心する大根田。
それに比べ、その向こうにある銀行は酷い有様だった。
屋根が落ち、壁は崩れ、割れた電光掲示板らしき物が石畳の広場まで飛んできている。よく見れば床から水道管らしき物まで飛びだしているようだった。その上に鳩が数羽とまって、何かをつついてうろうろとしている。
その向こうにも崖が見えた。
ただしそれは酷く遠い。
大根田は、ゆっくりと道路側に数歩移動する。
晴れた日には、居種宮市の北西には男峰山、人体山が遠く青く見えるはずであった。
しかし、傾いたビルや聳え立つ崖の透間から見えているのは、巨大な壁だった。
いや、正確に言えば迫って来る津波のように、連なっている崖。
延々と続く土の壁だ。
「あれは――山じゃないよなあ……」
「違うな。あんな山肌が全部抉れてる山脈、栃木にはねえよ」
大根田は視界をぐるっと回していくが、北西以外は建物や崖に阻まれて遠くまでは見えなかった。
「あの遠くの崖……どこまで続いてるんだろうな」
「さあなあ……もしかしたら栃木が丸ごと――いや、今はいいや」
野崎は頭を振って、煙草に火を点ける。
「禁煙してたんじゃなかったか?」
「ああ。奥様に今晩ぶん投げられるのは間違いないが、お前、こんなの吸わずにいられるか?」
「……俺にも一本くれるか?」
「いいともさ。お前も麗子さんに叱られろ」
二人は煙草を吸いながら、ようやく近場を観察した。
道路も勿論酷い有様だった。車道は大小様々な地割れが走り、それが隆起と沈降を繰り返し波のようになって、その間から円筒状の下水管が飛びだしている。
乗り捨てられた車がそこかしこにあり、電柱は軒並み傾ぐか倒れていた。
歩道は更に酷く、ガラスや瓦礫が降り積もり、切れた電線がだらしなくとぐろを巻いていた。
だからだろう、無事だった人々は、道路の中央にいた。
呆然と歩く老人。
足元を見ながら小走りで進む若者。
ママチャリを押して進む男子高校生。
大根田達の前の道路には人だかりがあった。
大声で何かを話し合っている。
余震の恐れや、電線の事もあるし当然か、と大根田は考えた。同時に自宅までの帰路に駅地下通路があることを思い出す。
多分あそこは通れない、となれば遠回りするしかない。五十メートル南にガード下を通る道があったが、あれも駄目だったら、最悪線路を横断する事になるかもしれない――
野崎が長く紫煙を吐く。
「ふーっ……差が、よく判らんなあ」
「差?」
「壊れていない車がいっぱいあるだろう?」
大根田はあちこちに目をやる。
成程乗り捨てられた車は、『ほとんどが無傷』に見えた。
野崎が歩道の端にある車を指差した。
「あれは、何がどうなって、ああなったんだ?」
その車は明らかに壊れていた。
窓ガラスは全て割れ、『全体的に歪んで』いた。しかし、屋根に圧力がかかったような形跡はないのだ。
「……なんか……いや……うん、判らん」
言葉を飲み込んだ大根田も煙を長く吐いた。
「あ、鉄パイプの侍おじさん!」
道路の中央の一団から、少年が手を振りながら走ってきた。小一時間前に自販機の下から少女を救い出したあの少年だ。その後ろには、当の少女もいる。
大根田は、やあ、どうもと頭を下げた。
「君達大変だったね。ご家族の方は?」
少年は、うちに居ると思いますと不安気に辺りを見回した。
「うちカフェなんで……メールもできないんで判らないんですけどね……。ところで、おじさん達はどっち方面ですか?」
「ああ、家の方向か」
大根田は成程と中央の一団を見る。
同じ方向に帰る人達で組んで帰ろうというわけか。
「僕は駅東だ。今元泉一丁目だよ」
「ああ、そっちか~、僕は駅西なんですよね~……。そっちの硬いおじさんは、どっちですか?」
野崎が、俺? と珍妙な顔をした。大根田は吹き出す。
「硬いってのはいいな。お前にぴったりだ」
「うるせーぞ鉄パイプザムライ。坊や、俺も駅西だ。上小曽だ」
少年は手を打った。
「僕と美咲ちゃん――あ、この子です――もそっちなんで、ご一緒してもらえないでしょうか」
いいだろう、と野崎は快諾した。
少年は渡辺一吉、少女は上野美咲と自己紹介をした。
「本日は本当にありがとうございました。お礼の方は日を改めて――」
上野が深々とお辞儀するのを大根田は、いやちょっと、と手で制する。
「僕は何も――君を助けたのは、渡辺君と自販機を持ち上げた男の人、それに足柄さんだから――あ、そういえばあの人達は?」
「ああ、見当たらないんですよね。もう帰っちゃったのかな……」
しゅんとする上野。野崎が腰を屈めた。
「心配するな。家が落ち着いたら、ここに来ればいい。いずれは……情報が集まってきてるはずだから」
野崎達を見送った大根田は、中央の一団に歩み寄った。
「すいませーん、どなたか今元泉一丁目に行く方はいらっしゃいますか?」
一番手前に居た中年の太った男性が、いやあと首を捻る。
「私等は裁判所の方に行くんだよ。一番遠い人で、造古学園前かな」
「おう、おっさん、俺はそっちに行くぜ」
声の方を向くと、自販機を投げた男が手を挙げていた。
「ああ、あなたですか! ええっと五十嵐さん、でしたよね? さっき、あの女の子が探してましたよ。御礼が言いたいとか――」
五十嵐は肩を竦めた。
「柄じゃねえよ。それより、どうだい? 俺と一緒に帰るってのは」
「ああ、それはいいですね!」
五十嵐はにやりと笑う。
肩にかけられた白いスーツは、大根田のワイシャツと同じく汚れてくちゃくちゃになっていた。厳めしい顔は笑顔になると一層凄味が増すように思える。
な、なんか、この人――怖いな。
大根田は少し顔が強張るのを感じ、すぐにいかんいかんと頭を振る。
人を見た目で判断するのはダメだ。
特に今みたいな状況では。
大体、この人は俺を救ってくれたじゃないか。
「確か、大根田さんだったよな? あんたスゲエよ」
い、いやいや、と手を振って大根田は五十嵐と肩を並べて歩き出した。
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