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朝起きると、都築から18時頃出掛ける支度をしておくよう仰せつかった。
何をするとか何処へ行くとか、何の説明も無く不親切極まりないが、食事も寝る場所も無償で提供してもらっているので、文句が言える立場では無い。
少し床を磨く手に力を籠めていると、前から足音が聞こえてきた。
「こんな早くから掃除しているのか?」
驚いた表情を浮かべ、こちらを見下ろしていたのは頭だ。
紺の無地の浴衣を着ていて、胸の前で組まれた腕はほどよい筋肉がついている。
様になっている──が、浴衣を見ると、恋焦がれた人の姿が鮮明な映像として頭に浮かび上がってしまった。
彼はいつも派手な着物を身を着けていた。その派手な容姿に負けないくらい中身も輝いていて…元気で明るい笑顔を見るだけでその日1日の気力が湧いてくるのだ。
昔のことに思考が囚われそうになって、振り払うように雑巾をぎゅっと絞って頭を見上げた。
「今日出掛ける準備をするように言われましたが、どこへ行くのか教えて頂けますか?」
「料亭だ。飯が美味いぞ。」
「ただご飯を食べに行くだけとは思えませんが。」
軽く眉を上げて頷いた頭は、縁側に腰を下ろし私も座るよう促してきた。
桶に雑巾を入れてから、少し離れた場所に座る。
「お前は、ヤクザが怖くないのか?」
「ヤクザどうこうよりも、人間に脅威を感じたことはありませんね。」
「ふっ、そうか。なかなか言うな。」
ふわりと笑われ、心に浮かんだ疑問が口を突いて出た。
「あなたこそ…鬼が怖くないのですか?」
「怖くないな。」
どこか遠い目をした頭は、切なくなるような瞳で庭先を見つめている。
この男は、鬼を知っている?
そして、そのことが彼にこんな哀しい顔をさせているのだろうか。
踏み込んで質問しても、はぐらかされるだけかも知れないが、私を鬼と認識していて、普通に話が出来るのはこの男だけだ──そのことが自然と口を動かした。
「あなたは、私以外の鬼に会ったことがあるんですね。」
「……。」
「しかし、それだけで私を鬼だと判断出来たとは思えません。一体何故……」
「お前は美しいな。」
「……は?」
突拍子もない言葉に、思わずポカンと口を開いて止まってしまった。
「掃除も上手いし、立ち姿もキレイだし、喋りも悪くない。」
「一体何の話を…」
「今日の会合で、俺が敵対している組の奴等と食事をする。物騒なことにはならないと思うが、何かあっても俺が守るから安心しろ。」
「…私を、守る?」
人間などに守ってもらわずとも、私は平気です。
そう喉まで出かかった言葉は、彼の真剣で温かい光を宿している視線に遮られた。
「──邪魔したな。」
戸惑っている私に柔らかい笑顔を向けた彼は、スッと立ち上がって歩き出した。その姿から、負傷の様子は微塵も感じなくなっている。
いや、そんなことよりも。
敵対している相手と食事?
物騒なことがあったら、私を守る?
彼は何故私に普通に接してくるのか、全く理解出来ない。
ただ、守ると言った言葉と彼の真剣な顔は、少しだけ私に優しい気持ちを運んでくれた。
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