独白

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 彼女は誰よりも愛を知っているひとだった。  そして、誰よりも、愛を知らないひとだった。  彼女はその小さな体躯に、溢れんばかりの大きな愛と、それと同じくらいの空洞をもっていた。  彼女のこころはいつも渇いていた。彼女は愛に貪欲だった。  ――愛したい。  ――愛されたい。  注ぐ宛のない愛を持て余し、愛を注がれることを渇望していた。  そんな彼女のこころは不安定だった。  僕はゆれ惑う彼女を眺めていた。  彼女の寂しさと優しさは人々を引き寄せた。  彼女は惜しみなく愛をそそぐ。  ――木漏れ陽のように。  ――木々ゆらす五月の風のように。  しかし人々は自分が満足すると彼女のもとを去った。  まれに彼女に愛を返す者もいたが、彼女の空っぽのこころを満たすほどではなかった。  人より大きな愛をもち、人より大きな空洞をもつ彼女は、人にいいように使われていた。  彼女はいつも寂しそうだった。けれど彼女はいつも笑っていた。  僕はそんな彼女をずっと見ていた。  彼女は彼女自身を愛することができなかった。  誰かに愛を与え、誰かから愛されることによってのみ、彼女は自身の存在を肯定することができた。  彼女は自身の幸せを知覚することができなかった。  彼女の行為によって誰かが笑うのを見て、彼女は幸せを感じていた。嬉しそうに笑っていた。  僕はそんな彼女をただ見ていた。  彼女の与える愛と同じ大きさの愛をもち、彼女のもつ空洞に愛をそそぎ、満たすひとはいつ現れるのだろう。  彼女はいつ、自分の幸せを知覚できるようになるのだろう。  ――そんなひとがはやく現れますように。  ――彼女が幸せになれますように。  僕は祈り、待った。  彼女の両親が、彼女のこころの空白を満たすことはなかった。  彼女は両親が幸せになれる道を辿っていた。  両親の顔色を窺い、両親の発言に従った。  父母の考えが割れると、彼女も揺れた。  そんな彼女に対し、両親は、「おまえの意見はどこにあるんだ」と怒った。  彼女の幸せの在りかたは他のひとのそれとは異なっていたため、彼女は何も言えなかった。 「おかあさん、おとうさんは、どうしたら笑ってくれるの?」  そう言えば、両親の顔が真っ赤になると彼女はわかっていたから。  彼女は悲しそうに笑っていた。  両親は「もう大人なんだ。ひとりで生きろ」と彼女に愛想を尽かした。  僕はそれをただ聞いていた。  僕の手元にある包丁を見て、  迫る僕を見て、  ぼくのきつく握りしめられた両手を見て、  彼女の薄い腹に刺さる無機物を見て、  彼女は笑った。  それはそれは嬉しそうに笑った。 「おにいちゃん、ありがとう」  花が綻ぶとはまさにこのことだと思った。  とても、きれいだと思った。  いつぶりだろう、彼女のそんな笑顔は。  幼稚園のころ、シロツメクサでつくった花冠を彼女の頭に載せたとき以来だろうか。  それとも、小学生のころ、一緒につくった雪だるまを完成させたとき以来だろうか。  あるいは、中学生のころ、両親に隠れて泣いていた彼女にビスケットをひとつあげたとき以来だろうか。 「おにいちゃん、私のために、ありがと」  彼女の頬を雫が伝う。透明なしずく。  僕の手には赤く濡れた包丁と、彼女の血。  僕と彼女を繋ぐ、絆のような血。  僕と彼女を縛る、鎖のような血。 「おにいちゃん、ずっと見ていてくれて、愛してくれて、ありがとう」  それはそれは幸せそうな彼女の笑顔。  彼女の瞳が色を失くし、閉じられ、彼女のからだがずるりとソファに崩れ落ちる。  ああ、彼女は逝ったんだ。  その骸をそっと抱きしめる。  絹糸のような黒髪が蜘蛛の糸のように手に絡まる。 「将春!? 愛!?」  両親の叫び声が聞こえる。  皮肉だろう?  彼女の名は、僕の妹の名は、愛、というんだ。  僕は愛の兄であったから、  彼女を幸せにすることができなかった。  愛は僕の妹であったから、  こんな身近に同じ大きさの愛をもち、同じくらいの空洞を抱えた人間がいたのに、幸せになれなかった。  僕たちは兄妹であったから、  愛を与え合うことができなかった。  愛を乞い合うことができなかった。  僕たちは兄妹の枠から外れてはいけなかった。  だから、  兄としてできるぎりぎりの愛を彼女に示したかった。  僕が彼女のためにできる最大のことを。  僕は彼女のために彼女を殺し、彼女を殺したが為に殺人の罪を負う。  彼女の救いのない世界に救いを与えるため、僕は彼女を殺した。  もう他人に振り回される必要のない世界に連れていってあげたかった。  彼女を殺したのは僕だから、僕は彼女を忘れない。  僕は彼女を殺したが為に人々に責められる。罵られる。社会的地位を失う。    僕はただ、彼女を解放してあげたかった。  何処かにきっとある、彼女のための世界に彼女を連れて行ってあげたかった。  彼女はあまりに優しくて、寂しくて、綺麗で、透明だったから、  きっとこの世界に間違って生まれ落ちてしまった天使だったのだろう。  彼女には、陽だまりや青い空、緩い風が似つかわしい。  いつも、いつまでも、  彼女の笑顔を、涙を、血に濡れる己の手を、腹を刺す感触を忘れない。  僕の服役期間が明けた。  愛の遺書が見つかったため、幾分か減刑されたらしい。  愛に気づかれていないと思っていたが、彼女には予想がついていたようだ。  そんなことを後になってから知る。  彼女はどこまでも優しい。  ひさしぶりに見上げる空は、どこまでも青く澄んでいて美しかった。  刑務所の鉄格子によって切り取られた空じゃなくて、  まるで鳥のように飛び立てそうな空。  風が頬を撫でる。  髪が視界を覆う。  シャツがはためき、バタバタと音を立てる。  柵に留まっていた小鳥たちが一斉に羽ばたいた。 「愛。――僕も今からそっちにいくからね」  願わくば、次の世では互いに愛し合える関係であることを。 ……チッ、チッ、チッ、カチッ。 ……ピピピピピピピピ!!  ――バンッ。 「…………」  懐かしい夢を見ていた。彼女と出会ってからは見ることも減っていた夢。  僕が僕になる前の、彼女が彼女になる前の夢。  ちらりと隣を窺うも、彼女は規則正しい寝息を立てている。  すぅ、すぅ、という寝息。上下に動く胸。伏せられた長い睫毛。顔にかかる栗色の髪。ちらりと覗く胸元。触れる温もり。  あのときには得られなかったものだ。  あのとき、鮮やかな赤を見て、こと切れる彼女を抱きしめた僕は、仄暗い悦びを感じていた。彼女を手に入れた気がしていた。嬉しかった。  彼女のためと言いながら、己の欲望を誤魔化して、正当化していたのだ。  彼女を殺すことでしか、僕は彼女を愛する方法を知らなかった。  彼女を殺すことでしか、僕は彼女を手に入れられなかった。  だけど、もう、  僕はあのころの僕じゃない。  彼女を殺すことでしか彼女を愛せない僕じゃない。  僕はもう彼女に自分の気持ちを伝えることができる。  こうして抱きしめ、眠ることができる。  天使を殺した僕に、神様は、何度も何度も同じ夢を見せた。  幾世も幾世も、彼女に出会えないまま、彼女のことを想った。  僕は片時も彼女のことを忘れなかった。  眠る彼女を抱きしめて、白い首筋に顔を寄せる。  鼻をくすぐるのは、甘くやわらかい匂い。彼女の香り。  安心してもうひと眠りすることにする。  ああ、しあわせだ。
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