1章 ホットココア

4/16
前へ
/49ページ
次へ
――足音だ。 熊だろうか。 ゆっくりと草を踏みしめながら、足音は徐々にこちらへ近づいてくる。 地面にしゃがみ込んだまま、息を潜めて音のする方を凝視する。 どうしよう。 急ピッチで思考を回転させるが、上手くいかない。 ここにきて、初めて〈怖い〉という感情が胸にこみ上げてくる。 落ち着こうと思えば思うほど、頭はますますパニック状態に陥る。 熊に遭遇したら死んだふりが有効ってよく言うけど、 あれって事実なんだっけ。 そもそも、熊じゃなくて見たこともない猛獣だったら? 寝間着一枚のわたしに一体何ができるというのだろう。 もしかして、魔法が使えたりするんだろうか。 ああ、駄目だ。 何も出てこない。 もうおしまいだ。 しかし、草むらの影から現れた足音の正体に わたしはホッと胸を撫で下ろした。 それは熊でも、見たこともない猛獣でもなく、若い人間の男だったのだ。 その人は、二十代であるようにも、三十代であるようにも見えた。 亜麻色の癖毛を耳の横で揺らしており、 色白の肌にはそばかすが散らばっている。 前髪の影に隠れて瞳はよく見えないが、どうやら外国人らしかった。 その人も、わたしを見て少なからず驚いたのだろう。 こちらを見下ろしたまま、その場でしばらく石のように動かないでいた。 が、やがて納得がいったという風にポンと手を叩いた。 「ああ、もしかして、〈汀〉からいらっしゃった方ですか?」 「みぎわ?」 「はい、海の水と、陸地の間のことです」 「えっ」 日本語が通じることに安堵していたのも束の間、 わたしはギョッとして男の顔を見つめた。 ここでは水と陸地の間から人が訪れることが普通なのだろうか。 だとすると、わたしと同じように、 その〈みぎわ〉から来た人がまだ他にいるのかもしれない。 一人で思案するわたしの前で、男も何やら眉根を寄せて苦悶しだした。 「困りましたね。営業時間外はお客さんをお迎えしない約束なので……」 営業? お客? 約束? 場違いな言葉が次々出てくる。 わたしが戸惑っていることにようやく気付いたのか、 その人は「簡単に説明するとですね」と言って身体ごとわたしに向き直った。 「僕は、この近くで喫茶店を営んでいるのですが、汀からいらっしゃった方々を〈お客さん〉としてお迎えしているんです。もし日中なら、あなたもお客さんとして喜んでお迎えできるのですが、生憎今は真夜中ですし……困りましたね」 そう言うと、その人は再び顎に手を置いて悩み始めた。 説明を聞いても、わたしはいまいちピンと来なかった。 けれど、あのとき意を決して布団の奥へ潜っていった行為を 否定された気がして、少し憂鬱な気持ちになった。 「あ、そうだ」 何か閃いたように、その人は突然顔を上げた。 つられて、わたしも顔を上げる。 「お客さんじゃなければ問題ないんだ。どうして今まで気付かなかったんだろう? いいですよね、それでも」 「あ、あの……」 わけが分からないでいるわたしに構わず、その人は嬉々として続ける。 その手には、琥珀色の液体で満ちたブリキのバケツが提げられていた。 「実は今、店の商品を作るための材料を集めていたところなんです。これから店に戻ってクッキーを焼くんですけど、手伝っていただけますか?」 石のように固まっているわたしからどう回答を得たのか、 その人は満足そうに頷いて、わたしの背後を指さした。 「それでは早速ご案内しましょう。僕の店はすぐそこです」
/49ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加