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私は再びカップに手を伸ばし、
これ以上何か言うつもりはないという意思をそれとなく見せつけた。
するとマスターは案の定、自分から話を再開した。
「先生の小説を読んだ人が、先生と全く同じイメージを頭に浮かべるとは限りませんが、それは逆に、一通りの言葉から、多種多様なイメージが生まれるということでもある、と説明できるはずです。言葉って、もともとそういうものなのではないでしょうか。身の回りにある物質を抽象化して、仲間内で共有できるようにした記号媒体が〈言葉〉であるはずです。先生はそれを否定的に捉えていらっしゃるのかもしれませんが、僕はそれこそが言葉の素敵なところだと思います。抽象的だからこそ、そこから具体的なイメージを無限に生み出すことができる」
「というと……」
「僕が一言〈珈琲〉と言って先生が思い浮かべる珈琲は、先生だけのものだということです」
彼がそう断言するのを聞いて、私は静かにカップを置いた。
髭についた珈琲をなめて、太く長い息を吐く。
「……流石だな。負けを認めよう。今回も完敗だ」
「何ですか、それ。勝負なんてしてませんよ」
カウンター越しに詰め寄る彼を無視して、私は残りの珈琲を飲み干した。
何故だか分からないが、とても爽快な気分だ。
マスターは私のカップが空いたのを認めると、
すぐさま次の注文を訊いてきた。
少し考えて、私はまた〈汀ブレンド〉を注文した。
ただし、今度はサイフォンではない。
淹れ方によって味の違いが浮き彫りになる〈ハンドドリップ〉を希望した。
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