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先生が珍しく二杯目を頼んだ。
棚からドリッパーとサーバー、水に浸したネルを下ろして台の上に並べる。
先生には言っていないが、
普段はペーパードリップで抽出する〈汀ブレンド〉を、
先生の時だけネルドリップに代えている。
紙のように使い捨てができないのは面倒だが、
豆の油分がフィルターでせき止められない分、
よりコッテリと濃厚な味わいを楽しむことができる。
湯が沸いたら、まずはその湯でドリッパーとサーバーを温める。
少し待ってから湯を捨てて、ドリッパーにネルをセットする。
そこへ、事前にミルで挽いておいた豆を、
台の上にこぼさないよう手を添えながら落とし入れる。
最後に、小さく盛り上がった山を崩すように、サーバーの側面を軽く叩いた。
再びケトルを手に取る。
ゆっくりと円を描くように、粉全体に満遍なく湯を回しかけてゆく。
赤褐色の雫が、サーバーの底にポタポタと滴り落ちる。
湯を吸った粉が、風船のようにブワッと膨れ上がる。
焦ってはいけない。
いったん手を止めて、少し待ってから再びケトルを傾ける。
角度を固定したまま、引き続きゆっくりと粉の上から湯を注いでゆく。
「やはり上手いもんだなあ。私がやると、蒸らす段階でいつも失敗する」
感心したように先生が呟く。
先ほどもそうだが、先生は僕が珈琲を淹れる度、その手際を褒めてくれる。
珈琲の淹れ方を熟知している先生からしたら、
自分などまだ未熟に映っているはずなのに。
しかし、そんなことはどうでもいい。
頬が緩みそうになるのを誤魔化すように、
僕は手元に視線を落としたまま口を開いた。
「二つのコツさえ掴めば綺麗に盛り上がりますよ。一つは挽いてすぐの豆を使用すること。もう一つは一定量の湯をゆっくりと注ぐことです」
私が言うのを聞いて、先生は眉をハの字に曲げて困ったように笑った。
「理屈は分かっているつもりなんだがね……」
そう言って、先生はカウンターの上で組んでいた右手を持ち上げた。
空中で、ケトルの取っ手を掴むような形を作る。
その手は微かに震えており、ときどきガクンと下がったりした。
「見ての通り手先が震えて、湯量を調節できないんだ。皆が機械を使って文字を打っている時代に、意地を張って紙に書き続けた報いかもしれないな」
それを聞いて、僕はふと不思議に思った。
言われてみれば、先生が原稿用紙以外に字を書いているところを、
今まで一度も見たことがない。
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