5章 汀ブレンド

8/14
前へ
/49ページ
次へ
----- 先生が珍しく二杯目を頼んだ。 棚からドリッパーとサーバー、水に浸したネルを下ろして台の上に並べる。 先生には言っていないが、 普段はペーパードリップで抽出する〈汀ブレンド〉を、 先生の時だけネルドリップに代えている。 紙のように使い捨てができないのは面倒だが、 豆の油分がフィルターでせき止められない分、 よりコッテリと濃厚な味わいを楽しむことができる。 湯が沸いたら、まずはその湯でドリッパーとサーバーを温める。 少し待ってから湯を捨てて、ドリッパーにネルをセットする。 そこへ、事前にミルで挽いておいた豆を、 台の上にこぼさないよう手を添えながら落とし入れる。 最後に、小さく盛り上がった山を崩すように、サーバーの側面を軽く叩いた。 再びケトルを手に取る。 ゆっくりと円を描くように、粉全体に満遍なく湯を回しかけてゆく。 赤褐色の雫が、サーバーの底にポタポタと滴り落ちる。 湯を吸った粉が、風船のようにブワッと膨れ上がる。 焦ってはいけない。 いったん手を止めて、少し待ってから再びケトルを傾ける。 角度を固定したまま、引き続きゆっくりと粉の上から湯を注いでゆく。 「やはり上手いもんだなあ。私がやると、蒸らす段階でいつも失敗する」 感心したように先生が呟く。 先ほどもそうだが、先生は僕が珈琲を淹れる度、その手際を褒めてくれる。 珈琲の淹れ方を熟知している先生からしたら、 自分などまだ未熟に映っているはずなのに。 しかし、そんなことはどうでもいい。 頬が緩みそうになるのを誤魔化すように、 僕は手元に視線を落としたまま口を開いた。 「二つのコツさえ掴めば綺麗に盛り上がりますよ。一つは挽いてすぐの豆を使用すること。もう一つは一定量の湯をゆっくりと注ぐことです」 私が言うのを聞いて、先生は眉をハの字に曲げて困ったように笑った。 「理屈は分かっているつもりなんだがね……」 そう言って、先生はカウンターの上で組んでいた右手を持ち上げた。 空中で、ケトルの取っ手を掴むような形を作る。 その手は微かに震えており、ときどきガクンと下がったりした。 「見ての通り手先が震えて、湯量を調節できないんだ。皆が機械を使って文字を打っている時代に、意地を張って紙に書き続けた報いかもしれないな」 それを聞いて、僕はふと不思議に思った。 言われてみれば、先生が原稿用紙以外に字を書いているところを、 今まで一度も見たことがない。
/49ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加