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「そう言えば、先生はずっと原稿用紙なんですね」
疑問をそのまま口にする。
サーバーに落ちる珈琲が完成量に達したので、僕は湯を注ぐ手を止めた。
「……一度、機械を使って書いたことがある」
ドリッパーを外してサーバーの中身をカップに注いでいると、
渋い顔で先生がそう言った。
その目はカップに向けられているが、
カップを通り越してどこか遠くの方を見つめているようにも見える。
「多分、私には向いていないのだろう。活字はキッチリ整い過ぎていて、かえって集中力が削がれる気がする」
並々と珈琲が入ったカップを、そっとカウンターの上に差し出す。
その珈琲を一口飲んで、先生は小さく息を吐いた。
「先ほどの話に戻る訳じゃないけど、イメージをより効果的に表すのに、生身の人間の筆跡が一役買っていると思うんだ。文字の大きさ、線の太さ、傾き具合、止めやハネの強弱……。そういった一見些細に思える微妙な部分に、作家の思いが少なからず表れると思っている。……まあ、出版されればそれまでなんだが。世間には頭の固い老人だと疎まれるかもしれないが、そういう考え方が全くなくなってしまうというのは、やはり悲しく思えるものだ」
事実、悲しそうな顔をする。
「僕は先生のそういう考え、好きですよ」
慰めようというのではなく、思ったままを口にした。
それを聞いて、先生がニヤリと唇を歪ませる。
「ほお。頭の固い爺さんの戯言が好きなのか?」
「はい。物好きだとよく言われます」
先生はあきれたように笑った。
「……生意気になったもんだ」
「僕は何も変わっていませんよ」
そうなのだ。
僕は初めて先生に会った時から、少しも変わっていない。
珈琲の淹れ方も、容姿も、店の内装だって一つも変えていない。
先生含め、この店を訪れるお客さんがいつでも変わらぬ気持ちで
くつろげるように、意図的に変えないようにしてきた。
そして、今のところその考えは正しいと思っている。
この先も変わらずにいることが、きっと僕に与えられた使命なのだ。
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