5章 汀ブレンド

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『マスターへ 早速だが、君に謝らなければならないことが二つある。 一つは、以下に書くことを直接口で伝えられなかったこと。 紙の上じゃないと素直になれないのは、君も知っている通りだよ。 もう一つは、この手紙を書くのに 君が描いたピーマンの絵の裏紙を使ってしまったことだ。 せっかくの傑作なのに惜しいことをした。 もしまた新しいものを描いたら、今度は額に入れて店に飾ってみて欲しい。 君はもう覚えていないかもしれないが、 私が初めて君の店を訪れたのは、もう四十年以上も前のことだ。 その間、ずっと隠していたことがある。 とはいえ、君のことだから薄々勘付いていたかもしれない。 実は君が存在している世界は、私が書いた小説の世界なのだ。 私が君の話を書き始めたのは、私が高校一年の時だ。 それからの四十数年間、私はこの喫茶店を訪れる客の悩みや、 それに対する君の返答を書き続けてきた。 そして、書き続けるうちに一つ分かったことがある。 それは、自分という人間について、 何でもかんでも知り尽くしている存在なんていないということだ。 だがそれでも、皆それぞれ心のどこかで、 我知らずそんな神みたいな存在を求めてしまっている。 私がこの物語を書いたのも、きっとそんな幼稚な動機からだろう。 喫茶店にやってくる客の悩みを、 大人のマスターがいとも簡単に解決してくれる。 恥ずかしい話、私の望む全知全能の神として君を描き、 崇めていたに過ぎないのだ。 しかしながら、実際のところ、 私は君にそんな存在になってほしいわけではない。 私も君より歳をとった。 当時は随分と大人に思えた君も、 今じゃ私の息子よりも若い青年になってしまった。 私は君に、全知全能の神としてではなく、一人の人間として生きてほしい。 一方的に客の悩みを解決するのではなく、 客の悩みを聞くことで、自分にとっての新しい何かを見付けてほしい。 精巧に組み立てられた物語の筋をなぞるのではなく、 事前に用意した計画などない世界で、予想外の出来事に沢山触れてほしい。 こんなことを一方的に言われて、君からしたら怒りたくなるかもしれない。 いや、大人な君はあきれるかもしれない。 作者として勝手に生み出しておいて、我ながら無責任だと反省しているよ。 だが先ほども書いた通り、君は私の理想像であると同時に、 息子のような存在でもあるのだ。 一人の親としての、息子に対する不器用な愛情表現と思って、 大目に見てくれることを願う。 さて、ここまでで私の願うところの大半は書き終えたのだが、 ただ一つ、誤解を生まないよう断っておきたいことがある。 それは、私が創り出したからといって、 君に全く自我がないというわけではない、ということだ。 たしかに紙と文字の世界に君を創り出したのは私だが、 君の淹れる珈琲の味は、紛れもなく君自身が創り出した味だ。 珈琲の味の違いがよく分からない私が言っても 説得力に欠けるかもしれないが、これだけは間違いないことだから 信じてくれて構わない。 願うところはほとんど書いたと言ったが、もう一つあった。 私は今まで物語を進める上で、色々な考えを君に述べさせてきた。 だがそれらは、私が短い一生の中で、 私なりに考えて、たどり着いたものに過ぎない。 ひょっとすると、その中には互いに矛盾しているものもあるかもしれない。 それだけ、私は一生のうちで考えが様々に変わったのだ。 この先、きっと君も君なりの答えを見付けることがあるだろう。 もちろん、私の考えと相容れない答えも出てくるはずだ。 そんな時には、遠慮なく君自身が見付けた答えを貫いてほしい。 どんなに理屈が通っているように見える答えでも、 自分で見付けたのでなければあまり意味はないと思うからだ。 最後になるが、生みの親として君の成長を見届けられないのは、 非常に惜しいことだ。 できることなら、いっそ君の喫茶店で私も一緒に働くことにしてしまいたい。 だがそれも到底叶わぬ夢なので、 私は大人しく現実世界に戻って残りの人生を謳歌するよ。 君にはこれまで何度も助けられた。 そのくせ、私は君に大したことは何もしてやれなかった。 全く悪い親だ。 到底恩返しには及ばないだろうが、良ければこの小説を受け取ってほしい。 この手紙をもって、この物語は完結だ。 これからは君の思う喫茶店を創り上げていってほしい。 そうしていつか、君の物語の登場人物として、私を招いてくれたら嬉しいよ。                未熟な父親でごめんな    作者より』
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