1章 ホットココア

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てっきり童話に出てくるような三角屋根の建物を想像していたわたしは、 やや意外な心持ちで眼前の店を見上げていた。 それは店というよりも、小さな箱と表現した方が的確であるような感じだ。 どこかの星から来た小さな王子さまのヒツジが、 確かこんな箱に入っていたような気がする。 「ここは裏口です。頭をぶつけないように気を付けてくださいね」 自分の背丈よりも低い扉に鍵を差し込みながら、マスターが言う。 マスターというのは、先ほど出会った外国人のことだ。 わたしが勝手にそう呼んでいるわけではなく、 彼自身にそう呼ぶよう言われたのだ。 一方、マスターはわたしのことを「ナツキさん」と呼ぶ。 もちろん、わたしが彼に名前を教えたからだ。 マスターが扉を手前に引くと、 その向こう側に倉庫のような空間が広がっているのが見えた。 ノブを掴んだままマスターが一歩脇へ退く。 お先にどうぞ、という意味だろう。 促されるがまま、わたしは店内に足を踏み入れた。 「今灯りを点けますね」 マスターは手に提げていたバケツを隅の方の床へ下ろすと、 空いた両手でマッチを擦って蝋燭に火を点けた。 倉庫の中が少しだけ明るくなる。 燭台の輪っかに指をかけ、 今度はマスターが先頭になって店の奥へ進んでゆく。 大きな棚が壁に沿って置かれているせいで、 歩けるスペースはほんの少ししかない。 うっかりどこかにぶつからないよう、 わたしは肩をすくめて倉庫内を見回した。 ジャムの瓶、調味料のボトル、缶詰、麻袋、樽、野菜、果物―― 商品の材料と思われるものが、隙間なく棚に並んでいる。 喫茶店を経営しているというのは、どうやら本当だったらしい。 マスターが二つ目の扉を開けると、ほのかに珈琲の香りが漂ってきた。 マスターが先に入っていって、ぱちんと壁のスイッチを押す。 オレンジ色の光が、こじんまりとした店内を照らし出した。 いかにも〈喫茶店〉という内装を思い描いていたわたしは、 またもや予想を裏切られた。 ここには古い蓄音機も、シックなボックス席も、 物静かで貫禄のあるマスターもいない。 代わりに、光沢のない焦げ茶のカウンターと、小さな本棚と、 あとお喋りで陽気なマスターがいる。 喫茶店に来たというより、おばあちゃんの隠れ家に来た気分だ。 木の温もりを感じる家に住んでいるおばあちゃんが、 ほんの出来心で喫茶サービスを始めてみた。 そんな感じだ。
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