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「どれにしますか?」マスターが訊く。
「選んでいいんですか?」わたしが訊き返す。
「ええ、もちろん」マスターが頷く。
「ただし、一つの形に揃えましょう」
少し考えて、わたしは丸い型を手に取った。
一番無難で、一番馴染みのある形。
クッキーと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やはり丸だ。
「さ、決まったら麺棒で生地を伸ばしましょう」
引き出しから麺棒を取り出すマスターの横顔をちらりと窺う。
わたしが丸を選んだことに対して、何か思っただろうか。
少し気になったが、訊いてみようという気にはならなかった。
薄く小麦粉を広げた台の上に、先ほど一つにまとめた生地を載せる。
その上で麺棒を手前から奥へ、右から左へと転がし、
生地を平らに伸ばしてゆく。
料理というよりは、粘土遊びをしているみたいだった。
丁度よい厚さまで伸ばしたところで、いよいよ型抜きに入る。
手前の端に型を当て、グッと力を入れてから慎重に持ち上げる。
レモン色の生地の上に、丸く細い線がくっきりと浮かび上がった。
「楽しいでしょう」横で見ていたマスターが言う。
「クッキーを作るとき、この瞬間が一番楽しいんです」
スピードが勝負と言われたので、そうゆっくりしてもいられない。
なるべく隙間を空けないように、わたしは次々丸く型を抜いていった。
マスターの言う通り、この作業は結構楽しい。
丸く抜いた生地は、オーブンシートを敷いた天板の上に等間隔で並べてゆく。
残った生地を再度丸めて伸ばして型を抜いて――。
この作業を繰り返すこと三回、わたしはようやく型抜きを終えた。
一番最後、微妙な大きさで余ってしまった生地は、
型を使わず指で形を整える。
天板が大きいので、一度で全部焼けそうだ。
重い天板を両手で掴み、予熱してあったオーブンに入れる。
旅立つ生地たちを見送る気持ちでオーブンの扉を閉めた瞬間、
わたしは太く長く息を吐いた。
空気が抜けるときの風船って、こんな気分なんだろうか。
まだ焼き上がっていないのに、絶大な達成感がどっと襲いかかってくる。
疲れ果てた様相で台にもたれるわたしを見て、
マスターは例の陽気な表情で小さく笑った。
「お疲れさまです。あとは焼けるのを待つだけですね」
「それと、片付けですよね」
台の上で散らかった器具をまとめようとしたら、
マスターが慌ててそれを制止した。
「片付けは僕がするので、ナツキさんは向こうに座っていてください」
そう言って、台の向こう側――すなわち店の方の空間を指さした。
「いいんですか?」
客じゃないのに、という意味で訊いたのだが、誤解されたらしい。
前髪の下から覗く瞳に、悪戯っぽい光が浮かんだ。
「いいんですよ。僕、黙って横で見ていただけなので」
「そんなこと思ってません」慌てて胸の前で手を振る。
「あはは、冗談ですよ」
わたしが面食らっていると、マスターはさっさと器具を流し台へ運び、
こちらに背を向けてしまった。
どうやら、洗い物の最中は口数が減るらしい。
言われた通り、わたしは座って待つことにした。
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