1章 ホットココア

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1章 ホットココア

最近、嫌な出来事がない。 その分、とりたてて良い出来事もない。 心の底から嬉しさがこみ上げてくるような瞬間に、 もう随分と長いこと出会えていない気がする。 毎日が同じことの繰り返し。 朝起きて、学校に行って、帰ってきて、寝る。 友達との会話で楽しいと感じることはあっても、そんなのその場限りだ。 その後の授業で当てられて、 間違いでもしたらすぐに相殺されてしまう程度の楽しさだ。 とはいえ、間違っても「この生活が嫌だ」と口に出してはいけない。 大人に言わせれば、「世界にはもっと不幸な子どもたちが大勢いる」からだ。わたしは十分〈幸せ〉の部類に入る人間で、 そう考えるべきだということは自分でも分かっている。 でも、本心では幸せだと思えない。 だから、そんな自分が余計に嫌いになる。 もうこれ以上考えるのはやめよう。 わたしは枕元の灯りを消して、目を閉じた。 途端に何も見えなくなる。 規則的な時計の音が、徐々に室内を満たしていく。 『目を瞑って何も考えなければ、いつかは寝られるわよ』 小さい頃、隣で寝ている母によく言われた言葉だ。 「眠れない」をしつこく連呼するわたしに、母は決まってそう返した。 ほとんど投げやりであったような気もするが、 事実、目を瞑って何も考えないことに集中していたら、 気づいたときにはもう朝になっていた。 いつもそうだった。 高校生の今では、この方法も随分と上手くなったものだ。 けれど、今日ばかりはどうしても眠れる気がしなかった。 一切眠気のやってくる気配がない。 昼間座ってばかりいるせいだろうか。 心はヘトヘトなのに、身体の方は全然疲れていないのかもしれない。 もう一度、何も考えないように努力してみる。 全神経を耳に集中させ、 時計の秒針が時を刻む音にだけひたすら意識を傾ける。 規則的なリズムが耳に馴染んできて、 脳の大部分を時計の音が満たし始めたときだった。 秒針以外の音が、かすかに耳を打った。
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