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2. 雨と霧雨と海霧
「環ちゃん、これは雨じゃないよ。霧雨…いやこの時期だと海霧かな?」
ある日、私が傘で防ごうと悪戦苦闘しているのは「雨」じゃないよ…と教えてくれた人がいた。
その人は、夏季限定でオープンする叔父の喫茶店「ノンノ」の常連客だった。
当時学生だった私は、社会勉強と細やかなバイト代を目的に、週末だけ「ノンノ」のお手伝いをしていた。
初めて彼に会ったのは、中3でバイトを始めた夏…。
午前9時、店が開いてすぐに彼は現れ、叔父に軽く挨拶をした。
年齢は40歳くらい、散髪が必要なくらいまで伸びた髪に無精髭…。
粗野な外見にも関わらず、窓側の席でコーヒーを片手に外を眺める姿は、地元の人にはない優雅さがあった。
8月になると毎朝くるお客さんで、名前は「アイダさん」という…。
当時は、叔父も彼の事をよく知らなかったようだ。
アイダさんは長身で肩幅が広い。いつも深緑のウィンドウブレーカーを羽織っているので、よく「猟師さん?」と地元の人に聞かれていた。
その度に「観光客です。」と答えていたが、1ヶ月も知床に滞在する人は珍しい。
「どこに泊まっているの?」という質問には、いつも「友達のところ。」と答える。
そして、乗っている車は、レンタカーではないようだった。
ミステリアスなアイダさんだが、性格は意外に社交的だ。
客が少ない時は叔父と談笑したり、観光客に知床のおすすめスポットを教えるなど、気さくな一面がある。
何か面白そうな話が聞けるかもしれない…。
バイトを始めて2年目、高1の夏…興味本意でアイダさんに話しかけてみた。
「コーヒーが好きなんですか?」
アイダさんはいつも濃いめのコーヒーを頼む。
「ん?必要だから飲んでるんだ。」
「必要?」
「この辺の地域は夏でも気圧が低い。低気圧の日は、体の細胞や血管も膨張するので元気が出ない。濃いめのコーヒーを飲むと、カフェインが血管の膨張を防いで、体の調子が良くなる。」
口数が少ない地元の人とは全く違うトーンで、アイダさんはよどみなく話す。
「低気圧…。確かに夏の知床は雨が多いんです。観光客の方にはちょっと申し訳なく思うくらい…。」
アイダさんは、少し驚いたように私の目をじっと見た。
「君、名前は何ていうの?」
「小沢環です。」
「ああ、もしかして小沢さんの親戚かな?環ちゃんか、いい名前だね。」
急にちゃん付けで呼ばれ、恥ずかしくて真っ赤になってしまった。
何も言わずに俯く私に、アイダさんは、今時期に降っているのは雨ではないと教えてくれたのだ。
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