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その6
そしてアイヴィーは高円寺から飛び出していった。
「ズギューン!」は3人編成でアイヴィーの留守を守り、松下のおばちゃんは何も変わらずライヴ写真を撮り続けた。
俺もバンドを続けながら、シンの居場所を探してあちこちを歩き回った。大嫌いなオマワリにも頻繁に連絡をして、シンのような男が見つかっていないか確認を欠かさなかった。
シンが失踪したのは秋。
季節は冬になり、そして年が明けた。
バーの開店準備をしていた俺の携帯に、留守番電話が入っていた。聞き取りにくい声だったが「弁護士」そして「シン」という言葉は分かった。
俺は急いで折り返しの電話をかけた。
「ミッチさんですか。お忙しいところすいません。」
「いえ、大丈夫です。留守電だとよく分からなかったんですが、シンはどこにいるんですか?」
弁護士からは、シンが具体的に何をしたのかは教えてもらえなかった。職業上の決まりなんだろう。分かったのはシンが地方の留置場に拘留されたということ。
「シンさんからの伝言です。『松下のおばちゃんに来て欲しい。おばちゃんなら全て分かってくれる』。以上です。」
俺はすぐに松下のおばちゃんに連絡を取った。
松下のおばちゃんがシンに会いに行くことになった。
俺は松下のおばちゃんを高円寺駅まで見送りに行った。
「ミッチ、悪いわね。」
「いや、シンのためだから。俺も行きたいけど、今回はおばちゃんに任せたよ。」
日帰りで帰るために朝早くの出発。普段の俺なら寝ている時間だ。
「シンちゃんと話したら連絡するわよ。」
「帰って来てからでいい。おばちゃんも疲れるだろうから。」
「まったく、あの子は何をやらかしたのかしらねえ。」
「分からないけど、生きてて良かったよ。アイツは殺しても死ぬようなタマじゃあないけどな。」
「そうね、本当に良かったわ。」
「アイヴィーには何も言ってないけど、いいよな?」
「あの子も来週にデビュー・ライヴだしねえ。状況が分かったらアタシから連絡するけど、今の時点で伝えても心配するだけだから。まずはシンちゃんがどんな状態なのか見てからよね。」
おばちゃんも、なるべく早く出発した方がいいに決まってる。
でも俺にはどうしても聞いておきたいことがあった。
ずっと秘めてきた思いを。
「おばちゃん。」
「なに、ミッチ?」
「俺、シンに信用されてないのかなあ。」
「えっ?」
今まで誰にも言えなかった思い。松下のおばちゃんなら受け止めてくれる気がする。
そう、俺がシンと長年一緒にいながら、ずっと感じてきた思い。見えない壁のことだ。
「アイツは悩んでいる時も、俺には何も言ってこなかった。今回も俺はシンとおばちゃんの間をつないだだけだ。俺はアイツと何年も一緒にバンドをやってきた。高円寺で誰よりも長い付き合いだ。」
松下のおばちゃんは黙って聞いていた。
「俺にはシンの考えが分かる。シンは俺の言うことを聞くよ。でも、シンが俺に何かを言ってくることはないんだ。アイツの気持ちを打ち明けてくれたことはないんだ。シンにとって俺は何なんだ?分からなくなっちまった。」
みんなが頼りにする俺。いつも冷静な俺。
そんな俺の中にある傷つきやすくもろい部分。誰にも見せず抑えてきた気持ちを、俺はおばちゃんにさらけ出した。
松下のおばちゃんは俺の肩に手を置いた。
「ミッチ。シンちゃんはアナタのことを本当に頼りにしているわよ。それは間違いないわ。」
そうなのか?それは慰めの言葉に過ぎないんじゃないか?
「ミッチが本当にシンちゃんの気持ちを知りたいんなら、聞けば彼は答えるわよ。それだけよ。」
予想外の言葉。
俺が、シンの気持ちを知りたいかだって?
俺が。俺が。
俺はその意味を何度も考え続けた。
松下のおばちゃんが中央線に乗って行ってしまった後も、ずっと考え続けていた。
シンは暴行で1年の実刑を務めることになった。
地方のライヴハウスでアイヴィーの悪口を言ったパンクスに激昂し、顔面を骨折させたとのことだった。
シンは松下のおばちゃんの前で、もう一度立ち上がることを誓った。
そして、そんなシンの唯一の願い。
成人の日にDXホールで行われる、アイヴィーのデビュー・ライヴの写真だ。
あいにく当日はプロのカメラマンが大々的に撮影することが決定しており、松下のおばちゃんは出る幕がなかった。
俺たちは相談のすえ、松下のおばちゃんに盗撮をさせることにした。もちろん、俺たちが命がけで守る。
アイヴィーには言えなかった。彼女なら分かってくれるはずだ。
デビュー・ライヴ中の出来事はよく覚えていない。
「プロ・ミュージシャンのアイヴィー」がそこにいた。まばゆいばかりの輝きを放ち、俺はその姿に圧倒されながらもアイヴィーが手の届かない遠くに行ってしまったことを実感した。不思議と寂しさはなかった。
俺はただ、アイヴィーの歌声を全身で浴び続けた。
その歌が全てを浄化してくれるかのように。
盗撮はうまくいったはずだった。
上からカメラマンが一部始終を見てさえいなければ。
そいつは無線でスタッフに連絡を送り、後手に回った俺たちはアッサリと捕まった。
腕ずくで逃げることも考えたが、アイヴィーのデビュー・ライヴを壊したくないという松下のおばちゃんの意見を尊重し、俺たちは写真を放棄してその場を立ち去った。
写真を撮れなかったこともそうだが、アイヴィーのライヴを最後まで観られなかったことが残念でならない。
これでアイヴィーとは完全に別世界の人間になってしまうような気がする。
俺たちは余韻を噛みしめるかのように、DXホールの外でただ時間を潰していた。
最初に気がついたのは松下のおばちゃんだった。
DXホールからライヴの音が消えて間もなく。
アイヴィーが俺たちのもとへ走ってきた。
ついさっきまで、あのステージのど真ん中で堂々と主役を張っていたアイヴィー。
「パンク・ロックの歌姫」という異名でスターダムを駆け上がっていたアイヴィー。
そのアイヴィーが、いま俺たちの目の前で息を切らせている。その意味が分からなかった。
「デビュー・ライヴ。今やるよ、ここで。」
アイヴィーは俺たちがやったことの一部始終を見ていた。
そして、腹をくくったのだ。
一番デビュー・ライヴを見たがっていたシンのために、すべてを投げ打って松下のおばちゃんに写真を撮ってもらう。
そのために、彼女はライヴを抜け出してきた。
最初は反対していた松下のおばちゃんも、アイヴィーの固い決意に遂には根負けし、カメラを構えた。
「シンもバカ息子だけど、アンタも相当のバカ娘だよ、アイヴィーちゃん。」
松下のおばちゃんのそんな言葉がやけに耳に残っている。
アンプも何もない中でゴンもジャッキーも楽器を構え、ショージはステップを踏んだ。
ワン、ツー、スリー、フォー!
シンに届けるデビュー・ライヴの始まり。客はたった一人、そう、俺だけ。
アイヴィーの歌声が夜空に響く!他の音は申し訳程度にしか聞こえないが、俺にはDXホールでのフルセットのライヴよりも強く激しくエキサイティングに聞こえた。
そう、アイヴィーが俺たちのところへ帰ってきたんだ!
チクショウ。こんな最高のライヴに客は俺一人なんて!
と、向こうから走ってくる人影があった。まだ暗くて誰だか分からないけど、どう見てもあれは俺たちの仲間だ。俺は夢中で飛び跳ねながら手を振った。
DXホールから人が次々に吐き出されてはこっちへ向かってくる。ピットはどんどん広がっていった。何十人、何百人、いや何千人。みんな笑っている。思い思いに楽しんでいる。はみ出し者のデビュー・ライヴ。アイヴィーの歌声は響き渡り、そこにいる者たちを残らず包み込んだ。
もうアイヴィーを遠くには感じなかった。一人一人の近くにアイヴィーがいた。一人一人のそばでアイヴィーが歌っていた。
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