その1

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その1

初めて彼女に会った時から、俺は今までの俺じゃなくなった。 頭から、すべてを引っこ抜かれたようだった。 一瞬にして俺は彼女の虜となった。 そして、俺はその気持ちを表に出さなかった。 いつも通り冷静に落ち着いて、考えながら、待つ。 それは俺が唯一、歌える歌だった。 「ミッチ、ちょっといいか?」 「ミッチ、相談があるんだ。」 「頼むミッチ、お前にやってもらわないと始まらねえ。」 ライヴハウスに行くと、大抵こんな話が俺のところに来る。 俺は物事の処理が得意だ。 あまり感情的にならないし、話をまとめるのが得意で顔も広い。そして出しゃばらない。 ライヴの企画、バンドの顔合わせ、トラブルの解決。みんな俺のところに相談を持ってやってくる。 それに対処するのは苦痛じゃない。何というか、俺はそういうことが好きなのだ。 もちろん、俺が一番大事にしているのは自分のバンドだ。 高円寺に来てからバンドは何度か変わった。 けど、相棒のギタリストだけはずっと一緒だ。 シンは何から何まで俺と正反対だ。 アイツは自分にも他人にも厳しくて、誰とも群れず誰にも付き合わず、自分のやりたいことしかやらない。 誰もシンの周りには近寄らない。 そして、シンはとびきりのギタリストだ。 ギターの腕も相当のものだし、何よりもステージ映えするような独特の雰囲気がある。いくら頑張っても努力では手に入らないオーラをアイツは持っている。 高円寺に来てすぐに、俺とシンは知り合った。彼はギタリスト、俺はドラマー。お互いバンドに飢えて上京してきたばかりだった。 性格的には水と油。普通ならまったく噛み合わないところだが、なぜか俺とシンは最初からうまくいった。 たぶん、違い過ぎることが逆に良かったんだと思う。 スタジオでもステージでも、俺たちの役割はハッキリとしていた。シンが暴れれば暴れるほど俺もやりやすかった。 シンの性格は激烈だ。バンド内で揉めることは日常茶飯事で、俺たちはいくつものバンドを渡り歩いた。他のメンバーはアイツに愛想を尽かしたが、俺とシンが離れることはなかった。 かといって普段から俺たちがつるんでいたかといえば、そうでもない。シンはシン、俺は俺。遊ぶことも飲みに行くこともめったになく、スタジオとライヴだけが俺たちをつなげる接点だった。 シンにとってはそのスタンスが居心地良かったんだろう。少なくとも俺はそう思っていた。 俺はシンのことが分かっているつもりでいた。皆に頼まれる、他のことと同じように。 俺には親友がいる。 やっぱり同じころから高円寺にいるギタリスト。シンとはまったくタイプが違う。どちらかといえば俺に似た性格で、俺の気持ちをよく分かってくれている。 ゴンのバンドは解散しかかっていた。俺たちは高円寺駅に近いもつ焼き屋の外にある席(テラスなんてしゃれたもんじゃない、ホントにただの外)で酒を酌み交わしながら、互いにアドバイスを送り合っていた。 いつもながらゴンの助言は的確で、それは俺がゴンに送る助言も同じことだ。答えは既に自分の頭の中にあって、お互いの言葉はその確信を深めてくれる。 「このままじゃ、続けても意味ねえよな。」 俺のグラスに瓶ビールを注ぎながら、ゴンがつぶやいた。 「この前のライヴを観てて分かったよ。もう限界だろ。」 「だよな。アイツら全然やる気ねえし…楽屋ん中、雰囲気最悪だったぜ。たぶん近いうちに誰か手ぇ出すだろうな。」 「その前に止めた方がいい。」 「ミッチの言うとおりだ。明日スタジオだけど、その前に集まって話して終わらせるわ。」 そう言ってゴンはタバコを吹かした。ゴンはタバコがないと数時間以内に死ぬ。 「あーあ、3年やったのによ。最後はこんな形で終わりかあ。バンドは終わる、彼女はいねえ、寂しいもんだぜ。」 「うまくいく時は勝手にうまくいく。ダメな時はダメ。今はいったん落ち着いた方がいい。」 「そっちは余裕だねえ。まあ、ミッチはバンドも絶好調だし、何たってモテるからな。」 「そんなこともねえよ。」 「そういやこの前のライヴの時、一緒にいた美人!あれ、誰だよ?」 ゴンはタバコと同じくらい女が好きだ。でも軽い男ではなく、彼女ができればちゃんと大事にする。 「ああ、あれはダチの知り合い。連れられてライヴ観に来たから、ちょっと相手して。」 「あの子、打ち上げでお前のそばを離れなかったぞ。すげえ~いい女だったろ!」 「ああ、まあな。」 「何だ、ひょっとして何かあったか?」 「いや。連絡先をもらったけど、いろいろと忙しくてな。」 ゴンは天を仰いだ。そのまま天井に向かって煙を噴き上げる。 「何だあ~ミッチ、ホンットお前そういうことダメだな!イケメンのくせに。」 「イケメン言うな。」 「忙しいとか言いながら俺と飲んでんじゃねえか!ありゃスーパー金星だぞ。今からでもいいから電話しろよ!」 「いや、別にいいよ。」 「お前な、そんなんだから何年も浮いた話ひとつねえんだぞ。俺なんか“目が赤ちゃんみたい”って女から笑われて、それでもミッチより断然、経験豊富だからな!…たぶん。」 ゴンは本当に可愛い目をしている。それはモヒカンでも革ジャンでもパンクでも隠すことができない。 「ゴンに最後に彼女いたの、一年前だろ。」 「アイツの話はするな!まだ引きずってんだから!」 俺は笑いながらビールをコップに注いだ。自然な流れでゴンはお代わりを注文する。そう、俺たちは息が合う。 「ミッチ、何が不満よ?あんないい女…。」 「んー…話した感じは悪い子じゃなかったけど、顔だけじゃ分からないから。それに別にパンクでもロックでもねえしな。あとから住む世界が違うって、戸惑わせても可哀想だしな。」 「お前なあ…そんなこと気にしてたら、一生彼女なんかできねえぞ?理想が高いんだよな。それがイケメンならではの悩みってやつか?」 「イケメン言うなって。」 「決める時は決める!やる時はやる!いい女は逃したら5年は出てこねえからな。これは間違いねえぞ。」 「ゴン。俺は別に今“彼女が欲しい”とか、そんなに思ってないんだよ。お前やバンド連中とガチャガチャやってる方がよっぽど楽しい。だから、いいんだ。」 「そんなもんかね。“パンクに恋してる”ってやつか?」 「まさに、いい言葉だな。」 そう言って俺はゴンとグラスをぶつけ合った。 そう、俺はパンクに勝る女なんかいないと思っていた。あの瞬間までは。 そしてゴンの言うことは今回も正しかった。それが分かったのは、だいぶ後になってからだった。
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