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婚約破棄をされた僕が愛した君を看取るまで。
しゅわしゅわと記憶が弾けていく。
「フローラ……」
記憶のどれもにフローラが映っていて、フローラがいなかった頃の記憶なんてもう思い出せないほど、僕の中にはフローラで埋まっていた。
フローラのために女の子が喜ぶような家具や雑貨を取り揃えた。
あの薄暗くて質素だった部屋は、明るく華やかな部屋へと模様替え。
外に出られないフローラのために花束を沢山贈った。
贈りすぎて、フローラの部屋が花壇のようになってしまったから、彼女のベッドが見えるように窓の向こうに直接花壇を作らせた。
病に苦しむフローラのために薬を探して東奔西走した。
時には国を越えて、腕の良い薬剤師の薬を買いつけにも行った。
フローラ。
フローラ。
僕の愛しいフローラ。
弾ける記憶を見つめながら、僕は顔をあげる。
ここは心の水底だ。
記憶に浸るのもいいけれど、延々とここにいるわけにもいかない。
フローラが待っている。
元気になったあの子が待っているんだーーー
「……さま、デリック様」
「……だ、れ」
目を開きたいけど開けない。
目蓋が重い。
喉もひゅうと乾いた空気のような音を出しながら言葉を発する。
自分の身体なのに、自分の身体じゃないようだ。
「デリック様……!」
温かく、柔らかい手の平が僕の頬に触れる。
あぁ、この声。
このぬくもりは……。
「フローラ……?」
「はい、デリック様」
重たい目蓋の上に温かい液体がぽつりと落ちた。
それが僕の目蓋にかかっていた重石を溶かすように、目蓋が軽くなる。
ゆっくりと目蓋を開ける。
そこには声の通り、フローラがいて。
僕は外界の眩しさに目を細めた。
「泣かないで、フローラ。何か悲しいことでもあったのかい……?」
君の涙を拭いてあげたいけど、身体が重くて思うようには動かない。
だからほら、泣かないでよフローラ。
でもはらはらと涙をこぼすフローラは僕の言葉に首を振る。
「いいえ、いいえ……悲しくはないのです。とても嬉しいのです、デリック様」
今まで見たことのないくらい、綺麗な笑顔。
その最高の笑顔に僕の心臓がきゅっと締めつけられて。
「……ここが天国かな?」
「バカなこと言わないでくださいヨ」
「本当。縁起でもないわよ」
あまりの尊さにスッと目をつむれば、どこからかここ数日聞き慣れた声が聞こえて。
「……ハイド先生と、カトリーヌ?」
「は~い」
「おはよう、ぼうや」
もう一度目を開け、首を声の方向に傾ければ赤髪の探偵と魅惑の魔女の姿が見えた。
そして目の前には、血色の良いフローラの可愛い泣き顔。
そのサファイアの瞳はしかと僕の姿を映していて。
「……僕は、生きている?」
「はい……! 生きています、デリック様!」
フローラが涙を散らしながら微笑む。
僕は何とか腕を持ち上げると、フローラの頬に振れた。
細くなってしまった僕の腕。
でも、フローラに触れられる僕の腕。
あぁ、本当に。
本当に僕は。
フローラは。
「生きてる……!」
その事実をようやく実感すると、僕の瞳もじんわりと涙が浮かんできて。
フローラの頬に触れていた腕で、自分の顔を隠す。
こんな格好悪い顔、フローラには見せられないよ。
「……っ、ハイド先生、僕が眠ってから何日経った?」
「そうですねぇ。約三週間……ですね」
三週間……。
三週間!?
「僕はそんなにも寝ていたのか?」
「そうよ。この私がいるんですもの。みっともなく餓死なんてさせないわよ」
カトリーヌがにっこりと笑う。
事件を解決して、フローラの治療が始まって。
僕の意識がこの身体に戻ったのは、だいたい僕が事故に遭ってから一週間ちょっと経った頃だったはず。
そこから約二週間のタイムラグがあったのか……。
ちょっと予想外の時間のズレに頭の中が整理しきれないでいると、投げ出されていた手を誰かが握る。
気がついてそちらを見れば、フローラが僕の手を握っていた。
「どうしたんだい、フローラ」
「……デリック様。カトリーヌ様とハイド様から聞きました。あなたが私のために必死に尽くしてくれたことを。そして私の命を本当に救ってくれたことを」
「そんなの……婚約者として当然だ」
「いいえ……私はもう、婚約者ではありません。そんな資格、私にはないのです」
僕は驚きに目を見張る。
でも……いや、そうだよね。
僕はフローラに婚約破棄されたんだ。
だからもう……僕らは婚約者でもなんでもないんだ。
「……ごめん、迷惑だったよね。婚約破棄した男にこんなことされるの。でも許してほしい。手前勝手な理由だけど、僕は君に……」
「いいえ、いいえ! デリック様が謝られることではないのです! 謝らないといけないのは私の方なのです!」
僕の言葉を遮り、フローラは声を荒げて否定する。
こんな剣幕のフローラを見たことなくて、僕が目を丸くしているとフローラは眉をへの字にして囁いた。
「デリック様はお気づきではないでしょうが……そもそもデリック様が事故に遭われた馬車。あれに乗っていたのは私なのです。婚約破棄を正式に申し出に行こうとミルワード家に向かう途中だった、私なのです」
「フローラ……」
「デリック様を危うく殺してしまうところだった重罪人なのです。デリック様に命を救われたというのに、私はあなたの命を奪ってしまうところだった……! そんな私があなたの側にいるのは烏滸がましいのです……っ!」
「……っ、そんなことは」
僕がフローラの言葉を否定しようとすると、フローラは首を振る。
「……私は、あなたが目が覚めたら言おうとずっと決めていたことがあります」
「……」
僕の心臓がばくばくと鼓動する。
それは死刑宣告を待つ罪人のような緊張感。
あまりにも緊張しすぎて、変な汗がじんわりと手の平に浮き出てきて、フローラに不快な思いをさせてしまっていたらどうしようと空回りなことを思ってしまう。
ごくりと唾を嚥下する。
フローラの小鳥のような唇が、ゆっくりと動くのを見た。
「身勝手なことは承知だと思っております。私は、勝手に婚約を破棄し、あまつさえあなたを死なせてしまうところだった悪い女です。それでも私は……この先の時間を一生デリック様と過ごせるのならば、もう一度あなたと婚約したいと、近い将来、結婚したいと思ってしまうのです……!」
フローラのすがりつくようなその言葉に、僕の身体は震えた。
そんな言葉、ずるいよ。
「……フローラ。僕はね、知っていたよ」
「え……?」
「君の思いを全部。君が僕のことを思って婚約破棄をしたことも、君が僕のことを思って泣いてしまうだろうってことも。それに事故はフローラのせいじゃない。急に飛び出した僕が悪いんだ」
一呼吸、置く。
フローラだけに言わせておくなんて、それこそ格好悪すぎる。
「今度はきちんと言葉にするよ。君が僕のことを信じられるように」
「デリック様……」
「僕は君を愛している。君の最期は僕が看取ってあげる。今回みたいな事故は二度と起こさない」
僕は笑う。
寝たきりで、ガリガリで、かっこわるい、こんな僕だけど。
「僕と結婚してください。僕だけじゃない。君と二人で幸せになろう」
「デリック様……!」
感極まったのか、フローラが僕の身体にすがるように抱きつく。
僕は震えるフローラの背中にそっと手を回す。
力強く抱きしめることはできないけど。
でも、捕まえた。
僕のフローラ。
可愛いフローラ。
「ずっと一緒だよ、フローラ。愛してる」
「私も……! お慕いしております……!」
ずっとずっと欲しかった。
フローラの本音。
ずっもうつむいていたサファイアの瞳が、明るく光を通して僕を見る。
フローラーーー。
「これで一件落着、ですね?」
「そうねぇ。後は二人でごゆっくり~」
「っ!」
そういえばこの部屋にハイド先生とカトリーヌがいたぁぁぁ!
「は、ハイド先生! カトリーヌ!」
「は~い」
「あらぁ?」
そろそろと部屋を移動しようとしていた二人に声をかける。
「二人も、ありがとう。後でまた声かけに来てほしい。報酬の話をしよう」
「ふっふっふ、かしこまりました~」
「ぼうやの身体もまた見に来るから、いつでもどうぞ」
ハイド先生がちょっと大袈裟にお辞儀をして、カトリーヌが手をヒラヒラさせながらウインクする。
そうして二人が部屋を出ていった後、落ち着いたらしいフローラが涙を拭きながらくすくすと笑った。
「どうしたんだい?」
「いいえ?」
「気になるじゃないか」
一人で笑っているフローラにちょっとすねた顔をして見せると、フローラは僕の頬をくすぐるように撫でた。
「デリック様が……眠っている間も私を助けてくださったんですよね。私のところにハイド様とカトリーヌ様を連れてきてくださって……デリック様はすごいです」
そんなこと……。
「僕は、自分じゃ何もできない人間だよ。ハイド先生とカトリーヌがいなかったら、フローラのことを助けられたかもわからない」
「それでも、彼らを連れてきてくださったのはデリック様ですよ」
フローラはそう言うと、僕の頬に自分の頬を寄せる。
「デリック様、沢山お話ししましょうね。これまでのこと、今のこと、これからのこと……私の知らないこと、また教えてくださいな」
「もちろんさ、フローラ。これから沢山、話をしよう。元気になったら、いろんなところに行こう」
「はい」
二人で顔を見合わせて笑いあう。
何の影もないフローラの笑顔。
こんな笑顔が見られるようになっただけでも、僕は幸せだ。
フローラの金の髪がふわふわと僕の頬をくすぐる。
僕は金糸のカーテンに隠れて、そっとフローラの顔に近づく。
ゆっくりとフローラのサファイアの瞳が閉じられーーー
「愛しているよ、フローラ」
君がおばあちゃんになるまで、ずっと側にいてあげる。
【婚約破棄をされた僕が愛した君を看取るまで。 完】
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