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婚約破棄をされた僕
「こんなの承諾するわけないじゃないか!」
ダン! とテーブルを殴りつける。
感情に任せて叫ぶけど、僕の声はせいぜいこの部屋の中くらいにしか響いていない。
南の国原産の巨木から削り出した一枚板に、貴重な硝子を重ねた艶やかなテーブル。
毛足の長いふかふかの絨毯と、細やかな紋様の描かれた上品な壁紙。
照明はもちろんシャンデリア。
テーブルに丁寧に配されたティーカップは、それ一つで良馬が買えてしまう。
僕が生まれて育ったこのミルワード家にはお金が沢山ある。
それなのに。
「なんでレディントン伯爵はこの婚約を白紙に戻そうとしてるんだ! お金が必要なんだろう! なのに、何故! 悪魔か!? 悪魔にでも唆されたのか!?」
「落ち着け、デリック」
「こんなの落ち着いていられるわけないじゃないか!」
「デリック」
一番上のシリル兄さんに窘められるけど、僕の憤りはそれだけじゃ止まらない。
噛みつくように言い返せば、重々しい声で父に名前を呼ばれる。
さすがの僕も、家長である父の声は無視できない。
むすっとしながらも父さんに視線を向ければ、父さんは困ったように眉を下げた。
「納得は行かなくとも、伯爵の決めたことだ。所詮私たちはしがいない一商人。身の程をわきまえろということだろう」
「でも、この婚約は……!」
「デリック」
いつもは穏やかな父さんの顔が厳しいものになる。
「食い下がるんじゃない。貴族とはそういう生き物だ。下手に関わると損得勘定が全て吹っ飛ぶ。それは商人なら避けるべきリスクだ。分かるね?」
「……」
父さんの言いたいことは凄く良く分かる。
これでも僕だってこのミルワード商会に携わる商人の一人だ。
そんなの分かってる。
分かってるけど。
「納得なんて、できるわけないじゃないか……っ」
「デリック!」
拳を握りしめ、僕は椅子を倒しながら乱暴に立ち上がり背を向ける。
後ろから、シリル兄さんの声が聞こえた。
聞こえたけど、僕はそれを無視して屋敷から飛び出した。
この婚約は、絵に描いたような政略結婚だった。
婚約の話を持ちかけてきたのは僕らが住む町の領主である、レディントン伯爵。
彼には病弱な一人娘がいるというのは有名な話で、社交界にすら滅多に顔を出さないという。
貴族なんて皆、プライドが高いだけの生き物だ。
よいしょして、おだてて、媚を売れば、良いカモになる。
ただ、ご機嫌取りを一歩でも間違えれば、僕らの方が損をする。
商人からみた貴族なんてそんなもので、伯爵家が僕らミルワード家に婚姻の申し出を入れてきた時は家族全員で眉間に皺を寄せた。
僕らミルワード家はそれなりに大きな商会を経営している。
自慢じゃないけど、レディントン伯爵領の中では一番……いや、国の中でも屈指の規模である商会とも言えるんじゃないかな。
そんな僕らに伯爵家の一人娘との婚姻の話が降ってわいてきた。
これはきっと裏に何かあるに違いないと思った父さんが、お抱え探偵に伯爵家の調査を頼むのも当然で。
でもその結果、病弱だと噂の伯爵家の一人娘のために、伯爵が古今東西の万病に効くという薬を片端から取り寄せた結果、伯爵家の金庫が空になっているという情報を得た。
これはある意味好機なのではと捉えたのは兄さんだ。
商人の地位は低い。
下に見られてしまうと、なかなか良い取引はできない。
でもそこに伯爵家という後見があれば別だ。
金が無かろうと、伯爵家は伯爵家。
その名の影響力は大きい。
婚姻を結べば、互いに利が得られる契約。
ただそれだけの始まりに過ぎなかった。
過ぎなかったはずなのに。
「フローラ……!」
僕の頭の中に、ベッドの上で儚く笑う女の子の顔が浮かび上がる。
最初はハズレくじを掴まされたと思ったんだ。
一番上のシリル兄さんは商会を継ぐために既に嫁を貰っているし、次兄のオスカー兄さんは国外の取引先との契約の一つとして嫁ぎ先が決まっている。
未婚なのは三男の僕だけ。
だから余っている僕がレディントン伯爵家に婿入りすることになった。
伯爵もそれで良いと言った。
これは契約だと。
伯爵家は金を。
商家は地位を。
各々、手に入れるための契約。
契約が交わされて、僕がレディントン伯爵家のお嬢様の婚約者になったのが二年前。
この二年間、僕は常に「これは契約だ」と自分に言い聞かせながら婚約者と接してきた。
契約だから、突然の破棄もありえると。
商人ならそのリスクを鑑みるのは当然だった。
なのに。
今になって。
「嫌だ、フローラ……! 僕は、君とずっと……!」
いざ、その「もしも」の未来がきてしまった時、僕はどうしてこんなにも無様に追い縋ってしまっているのか。
損得勘定が働いていない馬鹿だと、父さんには嘆かれるかもしれない。
契約に感情論を持ち込むのは子供のすることだと、シリル兄さんには呆れられるかもしれない。
でも僕はどうしても。
「フローラとずっと一緒にーー」
手紙一枚で申し渡された婚約破棄。
その意図を彼女の口から聞くまでは、納得できない。
そう思って屋敷を飛び出したのがいけなかったのか。
どこかで馬車を拾わなかったのがいけなかったのか。
あせる余りにいつもの道を選ばなかったのがいけなかったのか。
うすらと涙で滲む視界の中、大通りに飛び出した僕は、とても嫌なものを見た。
驚きに目を見張る貴婦人。
怒鳴りつける通りすがりの紳士。
陰る頭上。
辻馬車の素朴な屋根。
逞しい馬の巨躯。
そしてーーー闇。
「きゃぁーーーーっ!」
「馬車に轢かれたぞ! 誰か医者を呼べ!」
「君! なんてことだ!」
誰もが口々に何かを言うけれど。
「……フロー、ラ…」
消えゆく意識の中、僕の脳裏を霞めたのは、愛しく恋しい、婚約者の微笑みだった。
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