母になる人。(side.フローラ)

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母になる人。(side.フローラ)

 私に、お母様の記憶はなかった。  気がついた時にはお父様だけ。  お母様は、私を産んで間もない頃に亡くなってしまったと聞いた。  いないのが当たり前だった母。  ーー母の話を聞いたのは、デリック様との婚約が決まってしばらくしてからだった。 「ねぇ、ばあや。私のお母様ってどんな人だったのかしら」 「どうしたのですか、突然」 「なんとなく……」  嘘。  本当は嘘。  デリック様との会話で、ちょっとだけ気になったことがあったから。 「デリック様と婚約したということは、私もいずれ母になるということなのでしょう? でも、母とはどんなものか私は知らないから……」  ベッドの上で目をつむる。  それだけで昼間にお見舞いに来てくれたデリック様の言葉が思い出された。 『いつか元気になったら、僕と君だけじゃない。新しい家族も増えるといいね』  そう言って、私の額にキスをしてくれたデリック様。  優しい、優しい、私の婚約者。  優しいあの顔を見てしまったら、私があの人と新しい家族を生み出す未来なんてきっとこないなんて、言えなくて。  だから迂闊にも、想像してしまったの。  身体が元気になって、あの人と新しい家族を産み、育てる未来を。  ……でも。  私には母の記憶がないから。  母がどういう存在なのか、分からないから。  目を開け、寝返りをうてば、ばあやが優しい顔で私を見ていた。 「お嬢様のお母様はそれはそれはお転婆でございました。身体が弱くありましたが、昔は野山を駆け回る小猿のようでございましたよ」 「まぁ……身体が弱いのに、野山を?」 「ええ。レディントン伯爵領の東に静養地がございますでしょう? そこに行かれては、静養地にある農家の子供に誘われて、よく倒れるまで遊んでいらっしゃいました」 「肖像画のお母様からは想像できないわ」 「そうでしょうねぇ」  ばあやはくつくつと喉の奥を震わせるように笑う。  私は肖像画とは似ても似つかないお話の中のお母様に目を丸くした。 「その農家の子供とは、旦那様と結婚してからも深く交流しておられました。その頃のお話を聞きたければ、ばあやよりもその者に聞いたほうが沢山お話をしてくださりますよ」 「それはどなた? 私も知っている方?」 「ええ。ノーマン医師の奥方でございますよ」 「まぁ」  私の主治医であるノーマン医師。  彼の奥様が私のお母様と懇意にしていたなんて。 「初めて知ったわ」 「おや。てっきりノーマン医師から聞いていたものとばかり。彼の奥方はお嬢様の乳母でもありましたしね」 「まぁ、そうだったの?」 「そうですよ。お嬢様のお母様は産後の肥立ちが悪く、お乳の出が悪うございましたから」  くつくつ笑うばあや。  ばあやに聞いて、私は初めて乳母の存在も知ったわ。  私にお乳を与えてくれた人。  きっとその人は私の第二の母とも言える存在だと思って、私はノーマン医師に乳母に会わせてほしいとお願いした。  でも、ノーマン医師には首を振られてしまって。  どうしてと理由を聞けば、ノーマン医師の奥方は、産んだ赤子を亡くしてしまってから心の病になってしまって、家の外へは出せないと言われてしまったから、無理におねだりもできなかった。  だから私は代わりにノーマン医師に聞いたの。 「母にとっての子はどういうものなのかしら。私は母を知らないから……」 「そうですね……。男親の自分にとっても子は可愛いものでございました。女性にとって腹を痛めて産んだ我が子はそれはそれは至宝に等しいでしょう」 「私の母も?」 「ええ。産後の診察を請け負ったのは私です。産声を上げたお嬢様を抱いて幸せそうにしておりましたよ。残念ながら、あなたを抱いていられる時間はそうありませんでしたが」 「そう……」  私はその話を聞いて、少しだけがっかりした。  デリック様と描くもしもの未来。  我が子を抱いていられる自信は、やっぱり無かった。  我が子に乳を与えることも、想像できなかった。  だからね、デリック様。  私との婚約は解消するべきなのです。  でもいつか、その決心がつくまで。  今はまだ、貴方と夢みる微睡みの時間を過ごしていたいのです。  ◇  外の騒がしさに私は目が覚めた。  ざわつく声。  上がる怒声。  知らない人の声。  眠りを妨げるその声に誘われるように身を起こす。 「何故、私が毒を盛らねばならん! 赤子の頃から見てきたお嬢様に!」 「何故、ですか……。それはあなたの奥方のため。ひいてはあなた自身のため。あなたも実は、レディントン伯爵を恨んでいたのではありませんか?」 「何を……!」  声をあげているのは私の主治医と、赤い髪の知らない男性。  私は困惑して、彼らと一緒に私の部屋にいるお父様へと視線を向ける。 「お父様、これは……」 「あぁ、フローラ……騒がしくてすまないね。私も分からないことだらけでね、困惑しているんだよ」  困惑していると言いながらも、お父様は怖い顔をしている。  いったい、何が起きていると言うの。  困惑しながらお父様に支えてもらって身を起こしていると、赤髪の男性が私に気がついた。 「おや、お嬢様が起きられましたか。初めまして、レディントン伯爵家のお嬢様。わたくし、ハイド・スウィートマンと申します。故あって、デリック様よりお嬢様をお救いするよう頼まれた者でございます」 「デリック様から……?」  少しだけ目を丸くして、赤髪のハイド様の言葉に耳を傾ける。 「は~い。こちらのノーマン医師がお嬢様に毒を盛っているという証拠を掴みましたのでね?」 「戯れ言を……!」 「戯れ言ではありませんヨ。カトリーヌ」 「失礼しますわ」  ハイド様の側に立っていた、とっても魅力的な金髪の女の人がノーマン医師に近づく。  そしてノーマン医師がいつも持っている鞄に触れた。 「素人が触るんじゃない!」 「あいにく、彼女は薬師でございまして。薬剤の事に関してはあなた以上に手慣れているのでご心配なく」 「探偵さん、見つけたわ」  カトリーヌ様と呼ばれた女性が、ノーマン医師の鞄から一つの瓶を出した。  乳白色をしたあれは、ノーマン医師がたまに私にくれるお薬がわりのミルク? 「これは『ラ・ヴォワサンのマザーズミルク』ですね?」 「なっ」  お父様が息を飲んだ。  ラ・ヴォワサンのマザーズミルクって、なんのことかしら……。 「お父様、そのミルクがどうかしたのですか……?」 「……最近巷で噂になっている毒薬だ。それをフローラに飲ませていただと……!」 「伯爵よ、そのたわけた探偵もどきの言葉を信じるのですか!」  声を荒げるノーマン医師をからかうように、カトリーヌ様が瓶の底を見せる。 「すごく堂々と『ラ・ヴォワサン』って書かれているけれど?」 「くだらん……! ミルクは買っているだけで、毒なぞいれておらん! ラ・ヴォワサンのミルクは神出鬼没だとも言う。どこかですり替えられたんだろう!」 「確かに、ミルクは買うだけですが……ノーマン医師。あなたが入手しているミルクは、商人を経由していない。あなたの奥方のご実家で搾乳されているものでしょう?」 「それがどうした……!」 「すり替えるも何も、あなたがお嬢様のために買うミルクは、ほぼ全て毒入りミルクなのですヨ」 「何を証拠に……!」  ノーマン医師が眦をつり上げる。  あんなに怒っているノーマン医師を見たのは初めてで、私は怖くてお父様の胸にしがみついた。 「証拠はこれですヨ」 「それは……?」  そう言ってハイド様が持ってきた鞄の中から出したのは、瓶に入った植物。  お父様が訊ねると、ハイド先生は朗々とその植物について語ってくれる。 「アゲラティナ・アルシッシマという植物でございます。こちら人間にはもちろん、ウマやヤギなどの家畜にも有毒な植物でございまして。摂取された毒は家畜の胎内に蓄積され、血肉はもちろん、ミルクすら毒で汚染するのです。そしてこの毒草が、ノーマン医師が買いつけしている酪農家の一部の厩舎の餌から見つかりました」 「なっ……!?」 「……!」  私も、お父様も驚いてノーマン医師に視線を向ける。  そんな、では……!  では本当にノーマン医師が私を殺そうと……!? 「どういう事だノーマン! 貴様、フローラを治療する振りをして殺そうとしていたのか!?」 「ち、違います伯爵! こんなの出鱈目でございますれば! ええい、貴様……! 嘘八百を並べおってからに!」 「嘘八百を並べているのはあなたでしょうに。なぁにこれ。あなたの鞄に入っている薬瓶のラベル。しっちゃかめっちゃかじゃない。この粉薬はこんな色していないし、こっちの液薬はこんなに粘性高くないわよ」 「貴様!」 「ノーマン、どういう事か説明しろ!」  部屋の中の空気が一気に重たくなった。  ノーマン医師は私が今まで見たこともないような恐ろしい顔でハイド様を見た後……その目を、私とお父様にも向けた。 「……し、だったのに」 「……?」 「もう少しだったのに……! 全てが台無しだ!」 「っ、ではノーマン、貴様本当に……!」 「そうだ……! それもこれも、お前のせいだレディントン! お前達家族のせいで俺とジョアンナの子は死に、ジョアンナは心を病んだんだ……!」  耳に痛いほどの怒鳴り声に、私は思わずお父様の胸元に顔を埋めてしまう。  お父様はそんな私を守るように抱きすくめて、ノーマン医師の声を投げ掛けた。 「私たちのせいとはどういうことだ。お前の子の死因は病だと……」 「言葉の意味の通りだ……! 俺とジョアンナの子の死因はなぁ、そのミルクなんだよ……!」 「ラ・ヴォワサンの……?」 「そうだ! レディントン夫人の乳の出が悪かったから、お前の子はジョアンナの乳を飲み育った……! だが俺の子は……! 俺とジョアンナの子は、お前の子に乳を飲まれたせいで、牛の乳をやるしかなかった……! その乳にこの毒草が混じっていたんだ……!」 「なっ……」  ノーマン医師の叫びに、私は口を抑えた。  そんな……残酷な事って……! 「ジョアンナが心を病んだのはそれを知ってからだ! 自分の家で作った乳が自分の子を殺したんだからな! ジョアンナが自分の乳をやれていたら、俺たちの子は死なずにすんだんだ……!」  身体が、震える。  そんな。  私が、ノーマン医師の子の命を奪っていたというの……?  だからノーマン医師は、そんな怖い目で私を見るの……?  ノーマン医師の嘆きに、私も、お父様も、何も言えなかった。  だってそれは……私たち家族の罪だと言えるから。 「……ではなぜ、すぐに殺さなかったんです」  ノーマン医師の憎悪で凍りついた時間を溶かしたのは、赤髪のハイド様。  その問いは聞きたくもあり、聞きたくもないようなもので。  でも聞かねばと、私は息を殺して耳を澄ませた。 「そんなもの、下手に殺せば私が疑われるのは明白だ。だから長い月日をかけて、病死を演出しようとした。した……が」  ノーマン医師の声が震える。  そしてそれまで憎しみに染まっていたその表情が、崩れた。 「年を重ねるごとに……俺の中の医者としての良心と……親としての良心が揺れたんだ……っ! 俺の子も生きていたらこれくらいの年なんだと思う度、毒を盛る手が彷徨った……! あぁ、ひよったと笑うがいい! 我が子のためにも、愛した妻のためにも、復讐のできぬ臆病者だとなぁ!」 「ノーマン……」 「レディントン、忘れるな! 貴族であるお前が成した行動の結果がこれだということをな! そしてレディントン家の業が深いことをな! お嬢様がご自分の婚約者を轢き殺したという話は聞いて笑ったよ! 俺と同じだ! 自分の行動を悔やむがいいさ!」  ノーマン医師の言葉で、目蓋の裏に数日前の光景が浮かび上がる。  馬車と衝突し、頭から血を流すデリック様。  目を覚まさないデリック様。  私が、轢き殺した、デリック様。 「……っ」 「っ、フローラ!? しっかりしろ、フローラ!」  胸が苦しい。  締めつけられるように心臓が痛む。  デリック様を死なせた罪悪感が私の視界を赤く染め上げた。 「過呼吸よ、大丈夫。ゆっくり息を吸って、吐いて。吸って」 「誰か! ノーマンを牢にいれておけ!」 「お嬢様、しっかり!」  世界が騒がしい。  落ちていく意識の中、愛したあの人の声が聞こえた気がした。  ーーーフローラ、生きて。
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