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馬車にひかれた末路
僕が初めて婚約者と出会ったのは、二年前の春だった。
仮にも相手は伯爵家。
肥えた目にも見劣りしないようにめかし込んで行ったのは、今でも後悔している。
最初は正直、商家の息子である僕からみても手入れの行き届いた庭や玄関先、上品に誂えられた応接間が見受けられて、実は金になんて困ってないんじゃないかと疑っていた。
出された紅茶も、貴族が嗜む有名ブランドのお取り寄せ品。
狐に騙されたような気持ちで伯爵家に招かれた。
でもそれは、伯爵家の精一杯の見栄だったことはすぐに分かって。
気がついたのは応接間を出て、お嬢様がいるという奥向きの部屋へと移動する最中。
普通、客を通さないからだろうか。
絨毯のほつれはそのままで、よくよく見れば隅の埃も目立つような廊下。
確かにこれは金策に困っているようだと、最初の不信感は和らいだ。
それでも、その先にあったお嬢様の部屋に入ってみて一番驚いた。
お世辞にも美しいとは言えない素朴な木のテーブルと椅子。クローゼットも貴族のお嬢様に今まで売り付けてきたどんなものより安物に見えたし、ベッド脇に置かれたチェストには何の装飾も、置物もない。
その中で、大きくふかふかで清潔そうなベッドだけが、唯一の彼女の「貴族らしい」調度品だった。
想像を絶する部屋の有り様に、僕は絶句してしまって。
何も言えずに立ちすくんでいると、このくたびれた部屋には似合わない高級なベッドの上から、小さい声が聞こえた。
「あら……あなたが私の旦那様になられる方ですか?」
ふわふわの柔らかな陽光のようなブロンドヘア。
くりくりとした丸いサファイアの瞳。
薄くて青白い華奢な身体。
レースもフリルも何もない、質素なネグリジェ。
貴族という生き物を知っているのなら、皆は必ず彼女を貴族とは言わないだろうというくらいにみすぼらしい格好をしたお嬢様。
そんな彼女が僕に向けて淡く微笑んだ。
「ごめんなさい、こんな格好で。わたくしがレディントン伯爵家の娘フローラです。初めまして、デリック・ミルワード様」
病弱だし、みすぼらしいし、どこも良いところなんてないはずだった。
でもその瞬間。
フローラが僕に微笑んだ瞬間。
僕は彼女を幸せにしてあげたいと確かに思ったんだ。
◇◇◇
ーーーこれはきっと走馬灯というべきものだったのだろうか。
意識が途切れる寸前、フローラのことを強く考えてしまったからか、彼女と出会った時の事が一瞬にして脳裏に駆け巡った。
視界がぼんやりして定まらないけれど、人々の喧騒が未だ僕の耳には届いていて。
その声の中には「男が一人馬車に轢かれた」という物騒なものがあって。
それでようやく自分が馬車に轢かれたんだという自覚が生まれた。
生まれたんだけど。
「……ん? あれ?僕生きてる……?」
身体の痛みなんてない。
ちょっとだけ視界がぼんやりしているだけで、それも次第に鮮明になっていく。
すると、自分の視線の先に人だかりを見つけた。
馬車も馬もそっちにあって、皆そこで誰かを囲んでいる。
「……僕じゃなかったっぽい?」
集まった人たちが懸命に馬車事故に遭遇してしまった被害者を介抱しているみたいだ。
僕の方には何もない感じ、おそらく直前で馬が進路を変えたんだろう。
その上で不幸な犠牲者が出てしまった。
他人事とは思えなくて、僕もその場に近寄ろうとした……と、同時。
辻馬車の扉が開く。
中から出てきたのは、ふわふわのブロンドヘアをした丸いサファイアの瞳を埋め込んだ女の子。
見覚えのあるその顔に驚く。
「フローラ……!?」
いつもベッドの上で着ていたネグリジェとは違う、町娘のような格好をしてフローラが辻馬車から出てきた。
少しでも動くと息切れを起こして倒れてしまうくらい病弱な彼女が、どうしてここに?
驚いたけど、むしろこれはチャンスかもしれないと思った。
婚約破棄を申し渡された僕には、伯爵家の敷地に足を踏み入れることができるかどうか分からなかったから。
だから僕はフローラに声をかけようとしたんだけど。
「デリック様!」
初めて聞くフローラの大きな声。
そして体調を崩しているときよりも真っ青な顔。
おそらく人が目の前で跳ねられて恐ろしかったんだろう。
偶然そこに僕が通りかかったから、居てもたってもいられず飛び出してきてしまったのかもしれない。
そんな可愛い婚約者に顔が綻んだ。
あぁ、やっぱり僕は君が好きだよフローラ。
だから僕はフローラを抱きしめるべく手を広げたけど。
「デリック様……っ!」
彼女の瞳は僕を映していなかった。
僕と目が合ったと思った視線がするりと通りすぎる。
「え……」
雲を掴むような感覚に僕は戸惑った。
どうしてフローラは僕を見ない?
それどころかフローラは馬車を降りると一目散に人混みへと駆け寄って。
「デリック様……っ、デリック様……っ!」
その中央に倒れる青年を僕の名前で呼びかける。
全てが他人事のように見えた。
まるで額縁の中の絵画のよう。
聞こえていたはずの音が一切遠ざかり、僕は有名絵師のギャラリーに迷い込んだ時のような非現実感に包まれる。
僕が見てしまったのは自分自身。
頭から血を流し、全身から力が抜けてくたりと石畳の上に伏している僕。
冷や汗が背筋を伝う。
じっとりと汗ばむ自分の手のひらを見る。
これは確かに僕の手。
視線をあげて人だかりの中にいる人物に目を凝らす。
……信じたくないけど、あれも確かに僕自身。
これはいったいどういうこと?
混乱する頭の中、不意に目に映ったブティックのガラスのショーウィンドウに違和感を覚えた。
可愛らしいオレンジピールのようなカラーのバックルドレスを背景に映るのは、辻馬車の事故だけ。
僕はよろめきながらガラスに近づいた。
「……映って、ない」
ガラスに手をつける。
ガラスに、僕の姿が映っていない。
放心状態で何も考えずにやったその行動が、僕に確信をもたらした。
「……っ」
分厚いはずのガラスの感触がない。
むしろ僕の手がガラスをすり抜けてドレスに届いてしまった。
本当ならありえない出来事に僕は背後を振り返る。
痛いくらいに唇を噛むけど、分厚いコートを着ているかのように全身の感覚が鈍く感じられた。
それが一層僕に現実を突きつける。
「フローラ……」
ごめん、フローラ。
君より先に、僕は死んでしまったようだ。
今ここにいる僕はーーー幽霊の僕。
足元が一気に崩れ落ちたかのような絶望を感じて、僕は人混みから視線を外す。
死んだ僕はもう誰にも存在を知られることはないだろう。
フローラですらここにいる僕を見つけられないのだから。
どうしてこうなったんだ。
僕はただ、レディントン伯爵に婚約の話を考え直して欲しいと思っただけなのに。
それとも、ただの卑しい商人が貴族のお嬢様と結婚するということ自体が間違いだったのかな。
やるせない気持ちで目の前の悲劇から目をそらしてうつむいていると、僕の靴先の向かいに、別の誰かの靴が入り込んだ。
「何をうつむいているんですか三男坊。商人がそんな顔では金貨も逃げてしまいますヨ」
「は」
頭上から話しかけられて顔をあげる。
え、この声は。
シンプルに後頭部で結ばれた真っ赤なロングヘアーに前髪の一房が白く染まった不思議な髪。
髪色だけが派手で、着ているものはシルクハットに上等なコートといった、シンプルな上流階級風の装いをした青年が目の前に現れる。
「ハイド先生……?」
「は~い、ミルワード家のお抱え探偵ハイド・スウィートマンでございます」
シルクハットのつばをぐいっと上げてにっこりと笑った顔を見せてくれる。
僕は目をぱちぱちと瞬かせると、ようやくハイド先生が僕を認識しているということに思い当たった。
「ハイド先生、僕が見えるの……?」
「面白いことを言いますねぇ。見えていなかったら話しかけはしませんヨ」
ケタケタと笑うハイド先生に僕は何を話せば良いのか分からなくて困ってしまう。
え、これ、どう話せば良いの?
自分は死んでしまって、今は魂だけ、身体は向こうの人だかりにあるって言えば良いの?
自分でも分かっていないものをどうやって説明すべきか分からなくて、口を開閉していると、ハイド先生が事故に気がついたように顔をあげる。
「馬車事故ですかねぇ。かなり大騒動ですけども、迷える子羊が一人、憐れな犠牲になったんですかねぇ」
「あ、あのさ、ハイド先生」
「は~い。何ですか三男坊っちゃん」
くるりとハイド先生が僕を見た。
僕は意を決してハイド先生に告白する。
「あそこの馬車事故。あそこで、倒れているのは僕だ」
「ほう」
「あの、その、笑わないで欲しいんだけれど。僕、死んでしまったみたいで、魂だけが今ここにあるという状態というか、なんというか……えぇと、だからさ、つまり」
「三男坊は死んでいると?」
「そうなんだ!」
力一杯頷くと、ハイド先生は僕の身体をじろじろと見てくる。
顎に手をやりながら首を傾げる様子にやっぱり信じて貰えてないのかと思っていると。
「これはこれは。真に不可思議なこともあるようで」
ハイド先生はそういうと、パチンと一つ指を鳴らす。
「今の三男坊には影がない。太陽光による物質的な質感としての影も、鏡を境界線に映るシンメトリーな幻影も無いという状態。生き物として、たーしーかーにー、信じがたい状態でございますねぇ」
うんうんと頷いたハイド先生が胸を張って、鼻を高くする。
「よろしい。これは面白い謎ですヨ。どうして三男坊がそんな風になってしまったのか、私が調べてみせましょう!」
「ハイド先生~!」
これはすごく頼もしい味方だ!
味方だけども!
「それも調べてほしいけど! フローラに僕の遺言を伝えて欲しいんだ。僕の声はもうフローラに届かないだろう。ならばせめて、僕の声を、言葉をフローラに届けて欲しい……!」
「ふむ。私に死者の手紙を届けよとおっしゃるのですか?」
「うん。それが一番大事なことさ」
真剣な表情でハイド先生にお願いすれば、ハイド先生は目をキョロリと上向けて。
「残念ながら、それはいたしかねます」
「どうしてさ!?」
ただ一言伝えてくれればいいだけなのに!
裏切られたような気持ちになってハイド先生を睨み付ければ、ハイド先生は人込みへと視線を向けた。
「私は探偵ですヨ。推理小説の探偵はどんなミステリーも解決してしまうでしょう? つまり探偵の私はミステリーを解き明かす義務があります。もしあそこで死んでいるという三男坊が、例えば何らかの理由で魂だけが分離していると仮定してみましょうか? ではその場合三男坊は本当に死んでいると言えるのでしょうか?」
「え? あの、それファンタジー小説では?」
「もしかしたら三男坊は生きているかもしれないですし、なんなら私と話せるんなら伯爵家のお嬢様とも話せる手段が見つかるかも?」
え、ちょ、この探偵何言ってるの?
微妙に僕の言葉は無視されたけど、そんなことよりさらりと重要なことを言ったかい!?
「それは本当!?」
「さぁてねぇ? でも何もしないで諦めるよりは何かアクションしてからでも遅くはありませんヨ」
お茶目にウインクするハイド先生。
さすがハイド先生と言うべきか。
本当にそんな方法が見つかるのなら……。
「お願いだハイド先生。僕が生き返る方法か、僕がフローラと直接話せる方法を見つけてほしい」
僕は彼女に自分の言葉で伝えたいことがある。
頭を下げてハイド先生に改めてお願いをすれば、ハイド先生は優雅にお辞儀をして見せた。
「かしこまりましたヨ、ミルワード家三男のデリックお坊っちゃま。契約成立です」
頼もしいハイド先生の言葉に僕は希望の光を見いだした。
「それでハイド先生。僕は何をすればいい?」
「なぁんにもしなくて良いですヨ。依頼主の手足や目、耳となるのが探偵である私ですからね?」
その言葉をしかと受け止めて僕はハイド先生の横をすり抜けた。
僕の身体の側で泣いているフローラへと近づく。
その後ろから、ハイド先生が声をかけてきた。
「ちなみに三男坊、これの報酬は後で頂きますからねぇ~」
「お好きにどうぞ。僕の物なら何でも好きに持っていけば良いよ。僕はもう死んでるんだからさ」
「大判振る舞いは良くありませんヨ。ま、解決したらご相談しましょう」
律儀な人だなぁ。
話し方も見た目も変だけど、こういう真面目なところと仕事の腕が良いから父さんも信用してるんだけどさ。
僕はそう思いながら、フローラのかたわらに佇んだ。
僕の身体にすがって涙を流している女の子。
そんな彼女を僕から引き剥がすようにお付きのメイドに声をかけるハイド先生。
そこからはあっという間だった。
ハイド先生は野次馬を散らし、フローラを家へと帰し、僕の身体を自分の都合の良いように回収していった。
手際よいハイド先生を見送りながら、僕はフローラと一緒に馬車へと乗り込む。
馬車の中でフローラは僕を想って泣いてくれた。
それだけで僕は、フローラに捨てられたわけじゃないということが分かって幸せだった。
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