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死後二週間
あなたは死んでいますよ、と出しぬけに言われたとする。その時に、ああそうですか、と軽く受容できる人は少ないはずだ。
死後の世界へようこそ、と晴れやかに微笑まれても、多くの人は戸惑うばかりだろう。馬鹿なことを言うな、と怒り出す人も、いておかしくない。
比良坂幸泉は、その点では常識人の分類で、戸惑ったのち、今、怒りが込み上げている最中だ。
暮れ残りの街は、物憂げな息づかいで夜の濃い青さに染まりきろうとしている。
殴りつけてくるような轟音で、電車が右から左へ走りすぎる。緑の車体。騒がしい走行音が遠く小さくなるにつれ、自動車の警笛や街の雑踏が息を吹き返す。
「ではまず、最寄りの『業風の吹きさらし』へご案内いたします。そのあとは出雲、島根県にある例の出雲ですけれど、そこの伊賦夜坂までは、私の傘にご同乗いただいて、業風に吹かれましたらば、あっという間でございます。業風などと申しますと、地獄に吹く例のあれかと怖がられる方もおられますが、なんということもないただの大風ですので、ご安心ください。こちらの顕界に吹きます風は、まぁ塵やら噂やらを飛ばすものでございますけれども、業風と申しますのは魂を飛ばすものでございまして、違いと申しましたら、大方その一点でございます。えっと、伊賦夜坂にご到着なさいましたらば、出界用紙にご署名をいただきます。この顕界から出ますよという確認になります。顕界と申しますのは、つまりはこの世でございます。署名をお済ませになられましたらば」
さっさと段取りを説明しようとするその人を、幸泉は周章狼狽の態で遮った。
短兵急でも率爾でも出しぬけでも、唐突を表す便利な言葉が日本語には幾つかあるが、動顛のあまり、無礼者への一喝に活用することができなかった。いや、そもそも何の話かが皆目みえない。
女性。若い娘だ。それもかなり佳い感じの。歓楽街で声をかけられたら、鼻の下が伸びることはまずまちがいない。
『常世指南役』
と、厳めしい文言が、不釣り合いな丸み加減で書かれた名刺を、まず、唐突に渡された。街角アンケートよりも強引に。
彼女が身につけているものは、上下とも黒だ。喪服を思わせる装いだが、若い女性が好みそうな遊びと洒脱が施されている。上着の背にはフードが付いている。
目に付くのは、喪服にしては露出の多いその出で立ちよりも、背中に担いだ巨大な黒傘だ。傘生地の部分が娘の背丈を軽く超えていることも異様だが、手元の部分がマンモスの牙並に逞しく、長い。
その今日渋谷的ハロウィン女子が、右足をちょっと内股にして、両膝を揃えて可愛らしく立っている。小悪魔の角のカチューシャや、頬や目元に何かしらのペイントがあっても似合いそうだが、それはなかった。
「申し訳ないが、何かの勘違いか、人違いか、場所違いか、さもなければ、その、あれじゃないかな」
思考が突飛な人を表す仕草があったような気がしたが、どうだったか思い出そうとして、止めた。自分のように社会的地位のある人間は、その手の行為を慎んだほうがいい。
それに、ここは歓楽街とオフィス街とを隔てる線路のつまらない側とはいっても、夜、露出度の高い服装で、佳い感じの娘から声をかけられたら、何やら怪しいセンサーの反応を確認すべきだ。
立ち去るにしくはなし。
「勘違いでも、人違いでも、場所違いでも、もちろんあれでもないですよ」
佳い感じの娘は朗らかに微笑んだ。その娘の笑顔に釣り込まれた。露出された肩や太股に釣り込まれたのかもしれない。どうやら、別の感度の方が反応が良かったようだ。
「えっと、道返久那さん、と言ったっけ」
幸泉は、握っていた名刺を見返した。珍しい名字だが、ふりがながふってある。
「珍しいでしょう。読めない人、多いんです。私もときどき、なんでこんな読み方するんだろうって、不思議に思います」
久那は軽妙に笑った。
「死後の世界は、その昔は黄泉とよばれていたけど、そこへ向かう道を塞ぐ大石を、道反しの大神といったそうだ」
幸泉は豊富な知識をつい披露してしまった。
うら若い女性に知ったかぶりしたくなるのは、男性にとっては、つい光に集まってしまう羽虫の性質と同じくらい自然な現象だ。その自然現象を逆手にとって、世の中には悪い商売が横行している。
「博識ですね。でも、それだと、わたしにはあまり似合わないな」
久那は小悪魔的な瞳を大きく見開いたかと思うと、悄げたように視線を落とした。
「だって、わたしは、亡くなった人達が、ちゃんとあちらの世界、幽界ですが、そこに無事に到着するようご指南するのがお仕事なんです。それが道を塞ぐ石だなんて」
久那が明らかに肩を落としたのを見て、幸泉は慌てた。
「いや、おれは神話の雑学を話しただけさ。あなたのこととは関係がない。立派な仕事だと思うよ」
と言って、幸泉は大事なことにはたと気づいた。
「いやいやいや、ちょと待って。なに、何だって、亡くなった人の指南だって」
幸泉に両肩を掴まれた久那が、小さく頷いた。
「亡くなったって、誰が」
久那は、幸泉の目を覗き込んだ。小首を傾げてもいる。
「もしかして、おれか」
幸泉は自分の鼻を指さした。久那が、また頷いた。幸泉は、笑い飛ばそうとしたがうまくいかず、頬を引きつらせただけだった。
この娘は何を話しているのだろう。これはいったい何の詐欺だ。何をぼったくられるのだ。
その名前だけで人がひれ伏すような有名大学を卒業し、中央官庁に入庁して順調に昇進し、今は地方自治体の高い役職に出向している。
苦労して築いた社会的地位を失わぬよう、博打や女の類いは巧みに避けてきた。
女については、より正確にいえば、世間や妻に露見しないよう細心の注意を払ってきた。厳重な保安対策を張り巡らしてきたのだ。
だが、今回は新手だ。
「えっと、道返久那さん、と言ったっけ」
幸泉は、またそこに戻った。
「あなたの言っていることが、よく分からない。おれが」
「死んでますよ」
あっけらかんと久那が言った。その笑顔を見ると、怒る気が萎えてしまう。
轟音が、今度は左から殴りつけてきた。走り去る緑の車両。そして、事は振り出しに戻った。
「そんなには急ぐ必要はないんですけど、魂を乗せるくらいの大きな業風といいますのは、そうそう吹くものではありませんので、次のにお乗りになるのなら、やっぱり急いだ方がいいと思います」
「おれが、死んでいるわけないだろう」
この娘の戯言を突っぱねるための上手い文句が見つからず、幸泉は大声を出した。その剣幕に、久那は少したじろいだ。
多くの知識を頭の中に詰め込んだ。主張を正しいと認めさせるための弁法も学んだ。アリストテレスの弁論術も読んだ。全ては相手を言い負かすための努力だ。その日々の努力を、今こそ結実させるべきであるのに、幸泉の口を突いて出たのは、半ば願望に過ぎないありきたりの台詞だった。
「みなさん、そうおっしゃいます、初めは」
「初めも終わりもない。そんな馬鹿げた話、聞いていられるか」
久那を押し退けるように、幸泉は一歩を大きく踏み出した。
最初からこうすべきだったのだ。
佳い感じの娘の肌の露出の多さについ付き合ったが、つばを吐き捨てて立ち去るべきだったのだ。
「では、あなたは、ここで何をしていたのですか」
久那のごく簡単な問いかけが、幸泉の足に絡みついて動けなくした。
「何をしていたかだって。決まっているだろう、おれは」
幸泉には、次に続く言葉がない。
何をしていたんだ、お前は。幸泉は自分を叱りつけた。
さぁ、いつものように、権力者におもねるときのように、上役を言いくるめるときのように、部下を走らせるときのように、競争相手を蹴落とすときのように、培った記録力を総動員して、流暢に物語るのだ。
・・・・・。
何も分からない。
電車が通る。街の、遠い雑踏。
見慣れた緑の車両。見飽きた街並。網膜にまで染みこんだ電光飾。
夜だ。電車に乗って、マンションに帰っているはずの時刻だろう。
どうせ数年で本省に戻るから、大して吟味もしなかったマンション。虚栄心だけで選んだ物件だから、思い入れもない。
本気で話すことがもうなくなった妻との儀礼的会話を終え、どこか他人行儀な息子への形式的声掛けを済ませて、自室で厳重な注意を払いながら、部下の女性へメールを打っているはずの時刻だ。
こんなところで、電車を眺める習慣などなかったはずだ。
おれは、何をしていたんだろう。
「二週間前です。仕事を終えたあなたは、駅へ向かう線路脇のこの通りで、酒気帯び運転の車に、撥ねられたんです」
「自動車事故か、覚えてないなぁ」
「即死でしたからね」
久那は身も蓋もないが、幸泉は何故か腹は立たなかった。
「そんな人は、やっぱりなかなか事実が受け入れられません」
「地縛霊ってやつか、おれは」
自嘲気味に言うと、久那は黙ってどこかを指さした。
その指の先をたどると、近々取り替えられるだろう明滅する街灯の下に、人の朧姿があった。
今にも消え入りそうではっきりとは見えないが、出で立ちは昭和中頃風だ。
「あの人が地縛霊。わたしが声をかけても、もう全く届かない。あそこの次元とひとつになってしまっているんです。無自覚霊体と呼ぶわけでございますけれど、ああいった方をどのように幽界までご案内するのかが、わたしたちの課題の一つなんです」
まるで介護支援専門員のような話しぶりが、何だか可笑しかった。
「二週間前と言ったね」
久那は頷いた。
「もしかすると、ずっと声をかけ続けてくれたのかい」
「そうしないと、地縛霊になっちゃいますから。でも、指南役手帳の手引では二週間でだめなら諦めることになっています。他にも声を掛けなければいけない人がいますから。気づいてくれて、良かったです」
「二週間もずっと傍にいてくれたのか」
普通では考えられない。看護師でもホームヘルパーでも、二週間ぶっ続けに付きっきりなんて話は聞いたことがない。
見た目は小悪魔風だが、この娘は真摯で責任感の強い娘なのだろう。幸泉は久那を見る目を改めた。
見方を改めた幸泉の目が、自分自身にも向けられた。
死んだことは、どうやら本当のことらしい。
生きているときには正しいと信じて疑わなかったそれまでの自分。
幸泉のプライドの拠り所が、にわかに批判の対象となった。
「おれの葬儀は、もう終わったんだろうな」
妻は泣いただろうか。いや、ほくそ笑んだに違いない。ようやく棘の生活が終わったと。
息子はどうだろうか。父親が死んだという感覚すら持たなかったかもしれない。
両親はどうだろう。
友人は哀悼してくれただろうか。いや、待て、そもそもおれに、友人などいただろうか。
その後も何度か、緑の車両が右から来たり、左から来たりするのを眺めていたが、見えていたのはこれまでの自分が歩んできた風景だ。
「納得、できましたか」
幸泉が真実を受け容れた頃合いを見計らって、久那が声をかけた。
「納得はできないさ。こうなるはずだと思い描いていた将来が、いきなりただの妄想だったと言われてもね。でも、分かったこともあるんだ」
「どんなことですか」
「おれの人生が、取るに足らないものだったということさ」
久那が傍にいなければ、泣きじゃくっていただろう。
いや、死んだことにも気づかず、ここで、あの明滅する街灯の下の誰かのように、地縛霊になっていたに違いない。
「二週間って、長いと思いますか」
久那が、急に問いかけてきた。気持ちを切り替えましょう。そう提案された気がした。
「無為な人間には長いだろうけど、没頭している人間には短いんじゃないかな」
「長くも、短くもありません」
久那は、微笑むでもなく、真顔でそう言った。
設問と解答とに整合がないように思えたが、幸泉は、これが世にいう禅問答かと、続くはずの久那の解説を待った。が、久那が何も言わないので、幸泉は、この間を持てあました。
「えっと、どういうことかな」
「えっ、わかりませんか」
久那が意外そうな顔をしたのが、幸泉には心外だった。
「二週間って、時間でしょう。時間なんて、生きている人が勝手に作った尺度じゃないですか。お日様が昇って、沈んで、また昇って。それを勝手に二十四等分しただけですよ。長いとか、短いとか、そんなものは本来ないんです。あるのは、変化。生まれて、育って、次の命を残して、死ぬ。その循環も同じじゃないんです。少しずつ変わっていく。それだけのものなんです」
久那がなぜそんな話をしたのか、幸泉には分かりかねたが、これから時間を気にすることのない変化の中で過ごすことになることは、何となく理解できた。
その変化の一過程に、もしかすれば輪廻転生なるものがあるのかもしれない。
「そろそろ、いきましょうか」
久那が幸泉の手を取った。死んだ身空で不思議なことだが、久那の手は柔らかく、温かかった。不思議といえば。
「あなたは、生きているの。それとも、死んでいるの」
そこは、確認しておかなければならない。
「死んでいるに決まってるじゃないですか」
久那には受けが良かったようだ。大笑いする久那は、そのうち、チョーウケ~とか言い出しそうだったが、それは言わずに、しばらく本当に愉しそうに笑っていた。
幸泉は、救われたような気がした。こちらの世界も、そう悪くはなさそうだった。
一頻り笑った久那は真顔に戻ると、幸泉を急き立てた。次の業風が吹くまで、もう時間がないという。
時間なんてものはないとさっき言ったばかりではないかと不平を言うと、
「あろうとなかろうと、吹くものは吹くんです」
と、久那は言い退けた。
久那のいう業風の吹きさらしは、意外な場所にあった。
その恐ろしげな名称から、てっきり人の進入を峻拒するような秘境の谷奥や前人未踏の危峰を想像したが、実際は開けっぴろげの海だった。より正確には港である。
この街の風景は、山と海が近い。その境に、人々は長い歳月をかけて港と街を造り、暮らしてきた。幸泉もそこの住人だったが、今はもう違う。
高校生まで、両親と暮らした街だ。大学は中央に出た。そのまま中央省庁に勤めた。
再びこの街に戻ってきたのは、人事の担当者から、ここに県庁を置く自治体の部長職に空きがあると教えられたからだ。人事交流でつながりのある自治体だった。
顕揚欲はそれほど深くはないと自覚していたが、故郷に錦を飾りたいという思いは、やはりあったのだろう。
ほんの数年の出向のつもりだった。それが幸泉の運命を大きく変えた。自治体どころか、あの世への出向となった。あるいは、元々の筋書きだったのか。
両親はすでにこの街にいない。仕事で成功した父親は、息子の就職を見届けると、祝いの言葉もなく、母親を連れて暖かい地方へ移住した。別の女と旅立たないだけ、まだましだといわなければならない。
幸泉は、久那の後ろに続いて早歩きした。歓楽街の雑踏を横切って港に向かうのだ。
久那は人とぶつかるのも厭わず、ずんずん歩いていく。
ぶつかるとはいっても、久那の身体は通行人の身体と交錯して、すり抜けるだけだ。すり抜けられた通行人は、そうされたことにも気づかず、向かうべき先を見据えたままか、スマホをいじったままか、連れ合いとしゃべっているままかだった。
久那の真似をしようとしても、幸泉はやはり通行人を避けてしまう。その動作分だけ手間取るので、久那に追いつくため、幸泉は小走りになった。
疑問がある。というより、疑問だらけだが、とりあえずそのうちの一つを尋ねてみた。
「おれたちは、いわば魂だけの存在なのだと思うのだが、歩かないといけないものだろうか。その、業風の吹きさらしだっけ、そこまでひとっ飛びというわけにはいかないものなのかい」
久那は黙って歩き続けた。一定のリズムで前後する白い太股が、黙ってついてこいと命じているようだ。幸泉は話題を転じた。
「背中のその傘、大きいね。重いだろう。おれが持ってやろうか」
女性の気を引くには、まずは優しくするにかぎる。幸泉の経験則は、それである。
思惑通り久那は足を止めたが、幸泉の優しい言葉に絆されたわけではないことは、振り向いた顔を見れば分かった。
「この黒傘は、私たち常世指南役のいわば魂です。おいそれと人にはお渡しできません」
久那の小さな鼻が、ツンと鳴ったようだった。気に障ったのかもしれない。
武士が刀を魂と主張するのと同じ類いかと思ったが、久那は既に魂だけになっているはずなので、魂のそのまた魂があるのかと、幸泉はよく分からなくなった。いうなれば、魂に芯があるということなのかもしれない。
「それに、重さ、というものも、やっぱりこちらにはないんです」
「何に使うんだい、それ」
立ち止まっているので、通行人が突撃してくる。身体の中を通行人が通り過ぎる。いや、その逆なのか。
いずれにしろ、この交錯の感触には忍耐が必要だった。
死ねば何も感じなくなるということではないようだ。感触という精神作用は、肉体以外の何かにも由来しているということになるのだろう。
「大きな傘布でしょう。これを開いて業風に吹かれると、出雲の伊賦夜坂やら、天の浮橋やらまであっという間なんです。ほら、手元のところも立派でしょう。ここに、私とあなたが腰掛けるんです。ぶら下がる人もいらっしゃいます」
久那はそう言って胸を張った。大層自慢らしいが、その光景を想像すると、見栄えのする体裁とはあまりいえない。
「ほら、死神は鎌を持っているっていうじゃないですか。あれ、実はこの傘のことなんです。だって、鎌なんて持ち歩きませんよ。危ないし」
それはそうだろうとは思うが、死神の鎌と信じていたものが、実は傘だったとは意外だった。
どう考えても、自分のような社会的地位のある人間に相応しい洗練さとは程遠い。幸泉は、やるせなく首を振った。
知人に見られなければよいが。的外れな心配も頭をよぎった。
「死神ってのは、やっぱり存在するのかい」
「いますよ」
約四十年、半信半疑だったものが一言で解決された。
「ですが、死神とは申しません。入界誘発促進役と申します。ファシリテーターと呼ばれることもありますが、なんか味気ないので、わたしたちはもっと簡単に、つなぎ役っていっています」
要するにこういうことだ。新規入界者、つまり死んで顕界の存在でなくなった魂は、多くの場合、幸泉がそうであったように、死に気づかず、また気づいたときには大いに狼狽するものだ。
だが、死を予め悟っている場合、入界予定者は生前の整理をつけ、あるいは遺書を残し、つまりは計画的に臨終を迎えることができる。
そうやって入界した者は、指南役の案内にも素直に従い、出界入界の手続きが渋滞せず、すこぶる都合が良い。
そのため、入界予定者に、ごく自然に死を悟らせる入界誘発促進役、いわゆるファシリテーターの需要が生まれたのだ。
彼等は大昔から大いに活躍している。
幸泉の前にも現れたはずと久那は言うが、幸泉にその記憶はない。
だがそれもよくあることだそうで、ファシリテーターは寿命の近づいた入界予定者にあれやこれやの手法で死の到来を知らせようとするが、多くは気づかないらしい。
そこでファシリテーターがよく使う手法が、入界予定者の枕元に既に死んだ親族に立ってもらうというものだ。
これは効くそうだ。特に母親が有効だ。ただ、親族の協力が常に得られるわけではないらしい。
「きみは、その入界誘発促進役にはならなかったのかい」
そもそも誰が採用するのかが不明だったが、とりあえず尋ねてみた。
「その役職を拝命するのは男性が多いですね。ほら、死神って、男の人のイメージでしょ。結構きつい仕事みたいですよ。やっぱり、死を予告するというのは凹む作業ですからね。同期で配属された子は、いつもぼやいていますよ」
幸泉は適当に相づちを打った。久那の話は分かり易いようでありながら、どこか受け容れがたかった。意外と行政的で事務的だ。
「さきほどのご質問ですが、人は、意識の生き物なんです」
業風の吹きさらしまでひとっ飛びできないのか、という幸泉の質問のことだ。
久那は、つまり人の魂は心象で作られているんです、と注釈を加えたが、幸泉は、どちらにしろ腹にしっくり収まらなかった。死んでからも、結構分からないことがあるもんだと、妙な納得はできた。
「できると思えばできる。そう言われたことはありませんか。それ、実はとても大切なことなんです。できると思えば、少なくとも成功に近づくことはできます。人は、そう思い込んだことから逃げられないんです」
「自分が飛べるとは思っていないから、ひとっ飛びとはいかないというわけか」
幸泉は、自分の質問の答に見当をつけた。
久那は上空を指さした。幸泉は見上げた。けばけばしい街灯りの端っこが、夜空を濁ったカフェオレのように白っぽくしている。
「今夜は星が多いな」
そう言った幸泉は、自分ながら馬鹿なことを言ったと思った。この街の夜空で、星を見上げたことなどついぞないではないか。
では、あの沢山の小さな輝きは何だろう。動いている。いや、漂っているのか。幸泉は目を凝らした。
輝きが、産まれている。街灯りの端っこから千切れるように、新しい輝きが産まれているのだ。
幾つかの輝きが寄り添って、少し大きな輝きになりながら、右へ左へ流れている。
幸泉はさらに目を凝らす。この作業も、久那に言わせれば心象の作用なのだろう。
幸泉は、小さく声を挙げた。
人だ。久那と同じような服装の人が飛び交っている。黒傘にぶら下がっている。片方の手に持っているものは、網だ。虫取網のようなもので、輝きを集めているのだ。
「昆虫や犬や猫は、普段、心象とあまり関わらずに生きていますから、霊だけになったときに意識が希薄で、浮かんでいるだけになるんです。だから、私たちの仲間が、ああやって集めているんです」
心象に深く関わらない生き物は魂となれば光だけとなり、心象にどっぷり浸かって生きてきた人間は姿格好も当時のままで、移動するには歩くか走るかをしなければならないということらしい。
幸泉は、握りしめている久那の名刺を見返した。これも心象なのだ。
白の厚紙に、まろみのある青字で、常世指南役道反久那と印字された名刺。もし、幸泉が名刺とは無縁の生活を送っていたのなら、この名刺は何に見えているのだろう。
「急ぎましょう」
久那の白い太股の動きが慌ただしくなった。
通行人を避けたい幸泉には、華麗な拳戦士のような敏捷性が要求されるも、果たせず、誰かの体を通過するという奇妙な感触に、しばらくして慣れた。
歓楽街を外れ、沖合の船の灯りがわびしい港が近づくと、人が疎らになった。かわりに増えたのは、幸泉と久那と同じような二人組た。たまに、三人組や四人組などもいる。
どの組も、喪服のような黒い衣装に大黒傘を担いだ者が先導していた。
常世指南役は女性とは限らないようだが、安堵したのは、男の指南役の露出は抑えられていることだった。
女性の、それもかなり佳い感じの久那が担当になったのは運がいい、と幸泉は思った。死んではいるが。
港に人だかりができていた。正確には魂だかりだ。霊能力者が通りかかれば、腰を抜かすかもしれない。いや、彼らには見慣れた風景か。
仕事帰り、例の緑の車両に乗って、夜の遠い港を車窓から見たものだった。
灯りをつけた船も停泊していたが、総じて夜の港は寂しげだった。岸壁や埠頭はほとんど混凝土で造られていたが、文化的価値が高いのか、それとも港湾管理者の単なる怠慢か、築造年代が明らかに異質の古げな木製の桟橋が、一本だけ沖に伸びていた。
もうずっと前に音信を交わさなくなった父親を思い出すのは、その木製の桟橋を見るときだけだった。
子供の頃、父親に何度か釣りに連れていかれた思い出がある。どこか別の港だったかもしれないが、寂しげな雰囲気が思い出の風景と重なった。
その古ぼけた木製の桟橋が、業風の吹きさらしだとは、ついぞ知らなかった。
あちこちから集った二人組、三人組などが、港へ下りる道を辿って、木製桟橋の先端を目指していた。
桟橋が崩れないのかと心配したが、こちらの世界には重さがないと久那に教えられたことを思い出した。
東京ディズニーランドのアトラクションにはほど遠いが、護岸から桟橋に渡るところで渋滞が起きており、つくづく人は並ぶ生き物なのだな、と思った。死んではいるが。
久那が幸泉の手を引いた。割と後ろに位置していたのでで、久那は急かしたのだ。そのくせ、突然立ち止まると、後ろを振り返り、慌てて脇へ避けた。窘めるような顔で、幸泉の手を強く引いて、自分の横に並ばせた。
何事かと怪訝に思ったが、すぐに理由が分かった。
後ろから来た指南役の女性に、道を譲ったのだ。
その女性は、久那と幸泉に頭を下げて、通り過ぎた。
清楚な妙齢の女性だった。
喪服のような衣装は残念なことに露出が抑えられていて、落ち着いた、気品のある作りだった。それでも、その下には妖艶な肌体が隠されているようで、淑やかな装いがなおさら艶めいて見えた。
女性指南役は赤子を抱いていた。一歳を過ぎたかどうかというくらいだろうか。赤子は、怯えたように彼女の胸にしがみついていた。
おれもしがみつきたいという煩悩が起こらなかったかわりに、何か無性に悲しいものを目にしたような気がした。
幸泉たちの前に並んでいた組も、女性指南役に気づくと、慌てて道を譲った。救急車のようなものらしい。
「幼い子は、最優先で業風に乗ることができます」
「せめてもの、か。かわいそうに。親に先立つなんてな」
「もっとかわいそうな子がいますよ」
久那の声が、急に冷え込んだ気がした。
「親に、捨てられた子です」
何か冷たく鋭利なもので胸を一突きされた思いがして、幸泉は久那を見つめた。赤子を抱いた女性指南役を目で追う久那の横顔。頬の白さが磨り硝子のようだった。
「もしくは、親に殺された子です」
もっと鋭い何かで、幸泉は胸を抉られた。背筋がひやりと震えた。
「そんな子たちは、どこかで救われるのだろうか」
ニュースの音声やネットの文字では、幸泉は、そんな祈りに似た疑問を抱かなかっただろう。
「救われますよ」
しばらく間を置いて、久那は答えた。横顔を向けたままだ。
「あの赤子を抱いていた女性を、わたしたちは聖母と呼んでいます。子供を産んで、慈しんだことのある女性でないと、あの役には就けないんです」
声は感情を隠していたが、久那は聖母に、またはあの赤子のような子に、並み一通りでない思い入れがあるにちがいないと幸泉には思えた。
「そんな子どもたちだけでなく、魂はいずれ、かならず救われます」
横顔を見せていた久那が、発条に弾かれたように幸泉を振りむき、見上げた。
目元のアイラインなどなくても大きな瞳に、吸い込まれそうな光が宿っていた。
ありきたりな宗教の白々しい決め台詞やら騒々しい神のお言葉やらとはまったく異質な、それだけで真理と信じられる瞳。その神秘的な瞳に気圧された幸泉は、負け惜しみを試みた。
「みんな救われる、か。大悪党や犯罪者が喜びそうな口上だ」
「そうですね。どんなに罪深くとも、魂はいずれ救われます。ただ、救われるまでに、そういう魂は永遠を感じるでしょう。ですから、悪いことは、しないに越したことはないのです」
当たり前のことを丁寧に説明された気がして、幸泉は決まりが悪くなった顔を軽くこすった。
幸泉の反省を意に介する様子もみせず、久那は、人混みというか魂混みの向こうに遠ざかる聖母の背中を見つめていた。
「おれたちが最後になるみたいだな」
幸泉が声をかけるまで、久那は、聖母が見えなくなった虚空のどこかを見つめていた。我に返った久那は、ごめんなさい、と謝った。
久那の目が、濡れていたように見えた。これも心象なのだろうか。
幸泉と久那は、桟橋に並ぶ魂たちの最語尾に並んだ。
ほどなくして、風を感じた。背後からだ。
音はない。
風が流れている。背後からだけではないようだ。
風が、桟橋の先端に向かって集まっている。
歓声が起こった。魂たちの歓声だ。
桟橋の先端で、白く渦を巻いて伸び上がる風が見えた。
天に昇る龍のようだが、厳めしさはなく、長い首を天にもたげた白鳥のほうが似つかわしい。
魂が、風に乗っていく。
傘らしきものが風に巻かれていくのが、遠目に見えた。
たちまち光になった。
幾つもの光を渦巻いた風が、天へ、天へと昇っていく。
これが、業風なのだ。
幻想的だ。ただ見ているだけならば。すぐに幸泉も、その光の一粒になる。
久那の後ろに続いて、幸泉は桟橋を歩いた。歓声が近くなる。
「うれしいのかな、みんな」
自分は喜べそうもないと、幸泉は思った。
「みなさん、ではないですよ。悲しんだままの人もおられます。それでも、風
に乗るんです」
「喜んでいる人のほうが多そうだ」
「辛い人生を生ききった人もいますからね。ようやく安らぐんです。それに、やっとの思いでここに辿りついた人もいるんです。私たち常世指南役に出会えずに、迷い迷って」
「おれも、歓声を上げるべきなのかな」
久那は答えなかった。
幸泉は四十歳まで生きた。
両親には恵まれたほうだろう。多くを課されたが、乗り切るための支援もあった。物的支援に偏りがあったが、それは人から羨まれるほどだったので、よしとすべきだろう。
国内最高峰の大学を出て、中央省庁に勤めた。思ったよりも給料は少なかったが、地位はあった。どこへ行っても、その肩書きだけで一目置かれた。
職責はすぐに上がり、給料もそれに比例した。
知人は多かった。だが友人は少ない。親友は、かつていたような気もするが、大学受験や国家試験、省内での競争を勝ち抜く中で、いつの間にかいなくなった。
利用できる奴は多かったが、自分を利用しようと腹づもりしている輩も多かっただろう。
妻は出来た女性だった。合コンで知り合った。女性には不自由をした経験がなかったが、一番控えめだった妻に声をかけた。会場がそのままファッションショーになったとしてもおかしくないほどの色華やかな女性が集まった合コンだったし、一番融通が利きそうだったからだ。
実際、献身的だった。どんな要求にも応じたし、幸泉の金銭感覚に文句を付けたこともなかった。もっとも、浪費をしたつもりはないが、他の女性に金を使ったことは数度ではなかった。
美人は三日で飽きる、とかいう不埒な言い回しがあるが、手料理にも、会話にも、夜のひとときにも飽きが生じた。
特別な性癖はなかったので、夜のひとときの飽きが一番早かったかもしれない。
浮気は察知していただろう。女は察知するものだ。特に幸泉の最後の浮気は、熱が入ったものだったから。
子供はひとりいた。ひとりで十分だと思った。
男の子だ。いま、確か十歳頃だ。自分が課されたようには、息子には多くを課さなかった。支援するための物資が、自分の親ほどには豊かではなかったからだ。
いま思えば、愛情も、自分の親より乏しかったのではないか。
あの子は、おれを父親だと知っていただろうか。名前を付けたのは、確か妻の父親だった。
傘が開く音で、幸泉は回想を打ち切られた。笑顔に戻っていた久那の、小悪魔的な瞳があった。
「そろそろ、私たちの番ですよ」
久那は、傘の手元を掴むように、幸泉を促した。だが、幸泉は手を伸ばさなかった。
「もしも、風に乗らなければどうなる。地縛霊になるのかい」
久那は小首を傾げた。
「地縛霊ではなく、浮遊霊になると思いますけど」
「浮遊霊になれば、困ったことになるか」
「それは、まぁいろいろと」
風が近い。そのため詳しい説明を避けた久那は、幸泉の意図に想到して、綺麗な眉をあげた。
「おれ、やめとくよ」
幸泉は一歩後ろに下がった。伸ばされた久那の温かい手を避けるためだ。
「つぎに風が吹くのは、何時だい」
「業風は気まぐれだから、いつとは言えないけど、十日も空くことはないです。でも」
「おれも、せっかくだから歓声を上げたいよ。輪廻ってものがあるんだろうけど、比良坂幸泉の名で風に乗るのは、一回こっきりだろうからね」
「困ります。ただでさえ、人手が足りないんです」
「おれが気づくまで、二週間、待ってくれただろ。あとしばらく待ってくれ。そのときに業風が吹かなければ、地縛霊にでも、浮遊霊にでもしてもらってかまわない」
「わたしがそうするわけじゃありませんよ」
久那は唇を尖らせた。
「頼む。おれ、自分の人生が後悔ばかりだったと言っただろ」
「そうでしたっけ」
「言ったんだ。確かそんなふうなことを言った。でも、本当は少し前に気づいてたんだよ。死ぬより前にさ。おれがどんなに馬鹿な男だったか、はっきりと知りたいんだ」
「はっきりと馬鹿ですよ、あなたは。それに、今更どうにもなりませんよ。だって、死んでるんだもん」
「それでもだ」
幸泉は強く言った。
桟橋には、もう幸泉と久那しかいなかった。ひとり、誰か寝ているが、それは生きている側の宿無し者だろう。彼は、霊能力がなくて幸いだった。もしもあれば、うるさくて、今夜はとても眠れなかっただろう。
業風が弱まっている。昇龍の尾が、桟橋から離れかかっている。いや、白鳥の尾だったか。
「時間なんてものは、ない。そうだろう。今乗るか、次に乗るかだけの違いだ」
「そうじゃない場合もありますよ」
久那の最後の説得だった。
「今のままなら、おれは成仏できない。成仏させるのも、常世指南役の仕事だろ」
そうだったかしら、と手引きを検索している時間はなかった。業風が消えかけているからではなく、零れた光をひとつ、見つけたからだ。
「たいへん。こんなこと、滅多にないのに」
突然、幸泉をほっぽり出して、久那が桟橋を護岸へ向けて走り出した。
「おれのことより大変か」
一瞬だけ悪態をついて、幸泉も走った。
「賽の鬼に捕まっちゃう」
走りながら、久那はそんなことを口走った。
ひとつの光は、蛍のように右往左往しながら降下してきたが、あるところまで降りると、急に人の身体になって、落ちた。久那の両腕の中に。重さがなくて幸いだった。
「さっきの子じゃないか」
幸泉たちが見送った聖母に抱かれた赤子だ。
「聖母が落とすはずはないんです。この子が逃げたんだ。こんなこと、聖母から逃げるなんて」
久那は業風の渦を見上げた。光の渦が、天高く昇っている。もう、乗ることはできない。
「この子にもきっと、やり残したことがあるんだろう」
わかったような顔をして、幸泉は言った。
港は、いつもの静けさに戻っていた。
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