あの日の酒の味

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あの日の酒の味

今日で、7回忌を迎える。 父の命日。 大きな入道雲が、青空に浮かんでいる。 強烈な陽射しに、くらくらとしながら、 お墓の前で、焼香をあげる。 ジリジリと燃える焼香。 あの日を今日と同じ真夏日だった。 お経を聞きながら、記憶を巡る。 ーーーーーー 30代半ば頃になって、久しぶり実家に帰った。 社会人になってから、一度も顔を見せたこともなかったのに。 凄い田舎の、ろくに交通手段もない場所で、携帯なんてものに、理解をもたなかった父。 連絡手段なんていくらでもあるのに、忙しさにかまをかけて、距離をおいていた。 「久々に顔を見せたと思ったら」 そう、父は嘆息した。 母は、かなり昔になくしている。 兄弟はいない。唯一の血縁。 「ええ、悪いかしら」 これは単なる強がりだ。いくつになっても、何か言われたら反発してしまう。 少しの寂しさと、どこか郷愁の思いを漂わせて、父は語る。 「特に、詳しくは聞かん。お前もいい大人だ。母さんの部屋が空いている、好きに使え」 そういって、書斎に戻っていった。 私は妊娠していた。 相手がいない理由はここでは語らない。 つまらない内容だ。 ただ、子供には関係ない。 私は仕事にも、区切りをつけ、唯一の血縁、父に会いに来たのだ。 「別に、こっちも言いたくないわよ」 そうひとりごちた。 私は、たいして思い出もない田舎道を歩く。 父と顔を会わせるのが、どこか後ろめたく、嫌だったのだ。 道行く人々は、わずかながらいる。 いぶかしんだ目で見られていたが、私は全く気にしていなかった。 今思い出せば、田舎なんて閉鎖社会、私のことは、いろんな人がいろんなことを言っていただろう。 父はきっと、苦労しただろう。 このときの私は、尖って、跳ね返って、何も考えてなかった。 ある日、日課の散歩から家に帰ると、産婆さんが家にいた。 私は、無性にむしゃくしゃして産婆さんを返してしまった。 父には心ない言葉を浴びせて。 そこから、ちゃんと父とは話せなくなった。 ささくれだった心は、しこりを残し続けた。 次第に大きくなるお腹が、私を無自覚に追い詰める。 どうにか、この子は幸せにしなくては。 でも私のせいで幸せにできないかもしれない。そんな自己矛盾を抱えて。 だんだんと暑くなる気候。 汗がじっとりと体を伝う。 外からは、虫の声が聞こえてくる。 その日は、父が居間にいた。 どうにもできないもやもやが胸を去来する。 「いま、平気か」 そう父が切り出す。 私は、何でもないように、父の前に座る。 返事もせず。 父は酒を飲んでいた。 「そうか、今は酒を飲めないよな。このお酒は、母さんが好きだったんだ」 そういうと一口、飲む。 「なんかよう?」 そう、ぶっきらぼうに返してしまう。 そんな私自身が嫌で、言ったあとも自分勝手に不機嫌になる。 「いざというとき、この人を頼れ」 暗に、父に頼るようで頼れない私を、皮肉るように感じた。 渡された名刺には、番号が書いてあった。 私は、その名刺を引ったくるようにもらって、部屋に戻った。 去り際、父は何かを呟いたが、私の耳には届かなかった。 そのまま名刺をろくに見ずに、財布にしまいこんだ。 そして、数日後。 入道雲が一際大きい日。 父は死んだ。 癌だったらしい。 私はかなり動揺した。 身重の私を気遣い、多くの人が、色々と助けてくれた。 どうやら、父は自分の死期が近いことを悟り、せめて負担にならないよう、根回しをしてくれていたようだった。 私は、どこにもぶつけられない悲しみと、自分への怒りを抱えたまま、朝とも夜とも覚えず泣きに泣いた。 その日から近所のお婆さんが、見舞いにくるようになった。 もうすっかりお腹も大きくなり、なかなか動けない私は、そのお婆さんとよく話した。 主に父の話だった。 よく、私の話をしながら泣いていたようだ。 帰ってきてくれたこと、そして子供を授かったことに、心から喜んでいたようだった。 母と私を心から愛してくれていたこと。 私に言ってしまった言葉を、私との付き合い方がわからず離してしまったこと、色々と後悔していた。 父のそんな一面があることを全く知らなかった。 いつも厳格で、書斎にばっかり閉じ籠っていた記憶しかなかった。 父は小説家だった。 「あの人は不器用だったからねえ」 そう付け加えた。 「でもあの人の書く文章は、なんか優しくてね、これが全く似合わないのよ」 そうお婆さんは笑いながら。 ある日産気づいた私は、近所のお婆さんを呼んだ。 お婆さんは、大慌てだった。 私は、ふと思いつき財布を取り出した。 そこには名刺があり、産婆さんの番号が書いてあった。 夜中なのに、電話はすぐに繋がった。 産婆さんは、すぐに来てくれた。 産婆さんは、ずっと気がかりだったという。 計算して、もう出産のタイミングがきてもおかしくないと思っていたようだった。 そこでも、父からの根回しがあったという。 「あの人、ふふ。毎日のように様子を伝えてくれてね。よく状況がつかめてね。おかげで間に合ったわ」 そういいながら、器用に手際よく、産まれた子供を綺麗にしてくれた。 8時間以上かかっただろう。 夜中だったのが、すっかり朝を迎えていた。 私は気を失い、起きたらお昼だった。 その日もよく晴れた日だった。 ーーーーーーー 私は、目を開く。 お経が終わったようだ。 お坊さんに感謝を伝え、娘と二人帰路につく。 部屋に戻り、なんとなく書斎を覗く。 父のいた書斎だ。 命日のたびに、部屋を掃除することにしている。なるべく父の生きていた痕跡がなくならないように。 ふと並んでいる本のなかに、一冊だけ真新しいものがあることに気づいた。 手に取ると、私は胸が締め付けられる気持ちになった。 その本のタイトルは 「真奈美」 私の名前だった。 あらすじもなく、ただシンプルな装丁だった。 目の前がじわじわ滲む。 読み進めれば読み進めるほど、 私は愛されていたことに気づく。 滲んで、先が読み進められなくなったとき、 ふとあの日のことを思い出す。 母の好きだったお酒、父の愛した母の。 父が死んでから一切、開けていなかった酒蔵を開く。 夢中で、お酒を探しだす。 埃かぶっていたが、そのお酒を丁寧にふき、 大事に運ぶ。 そして、あの日の父のように一口、口へ運ぶ。 ああ、あの日の味はもう味わえないのだ。 娘が、どうしたの?と近寄ってくる。 何でもないよ、というと娘は心配そうな顔をする。 「これすっぱくて辛いの?」 そう娘は、首をかしげる。 ええ、すっぱくて辛いの。 そういうと、涙をこらえることができなかった。 娘を抱き締める。 その時、ふと記憶の片隅で、あの日父が呟いた一言が聞こえた気がした。 私は、娘にそれを伝える。 「ずっと見守っているよ」 と。 娘は、父を知らない。 そろそろ話をちゃんと聞いてくれるだろう。 私は、娘に話そうかと思う。 あなたの素敵なおじいさんのことを。
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