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「ねえ。」
アイスを半分食べ終えたところで、私は口を開いた。
「なんで、生物部入ったの?」
「ん?どうした急に。」
「別に、気分だよ気分。」
モナカを頬張りながら私を見つめる片瀬。私はその視線をこめかみに感じながら、返事を待った。
しばらく二人とも黙っていたが、不意に片瀬の視線の気配が消えた。私はようやく横を向いた。前に向き直った片瀬は、どこか遠くを見るような目をしていた。その顔がいつものふざけた表情と違って大人びていて、なぜか息苦しくなった。
「俺、将来留学したいんだよね。」
「え?」
留学?お前が?ていうか、それが生物部と何の関係があんの?
「そっからだと話しづらいか。お前、俺が中学から理科好きなの知ってるよな。」
「うん。」
中学の時、理科の授業が終わると毎回先生と残って話し込んでいるので、そんなに理科楽しい?と聞いたことがある。だって面白いじゃん、と笑いながらこいつは答えた。英語と社会が特異なザ・文系の私にはあまり共感ができなかったけど。
「そんで田口先生、中学の理科の先生と仲良くなって色々話したり本借りたりしてたんだけど、いつかに借りた雑誌におもしれえ研究の記事があって。それが生物系のやつだったんだけど。」
「それがきっかけ?」
「まあそうなるな。その研究やってたのがドイツの大学でさ。大学生になったら行ってみてえなーって思ったんだよ。でも好きなだけでいるんじゃ絶対行けなさそうだし、ちゃんと勉強しなきゃいけないんだろうなあって。そんで生物部に入った。」
いつもと違う淡々とした真剣な片瀬の声が、耳に残った。
なんだこいつ、急に真面目になって。
悪態をつく裏で、心に穴があいたような感覚があった。
違う。私が気付いていなかっただけで、あの頃からずっとこいつは将来のことを考えていたんだ。
何も考えていなかった、そして今も何も考えていない私の横で。
『お、鳴海!お前もう部活決めた?やっぱ水泳部?』
『当たり前でしょ。片瀬は?』
高校入学したての頃の会話がフラッシュバックしてきた。
『ふ、聞いて驚け、生物部だ!』
『……は?』
『へへっ、やっぱ驚いたか。高校デビューでインテリキャラになるぜ俺は!』
『似合わなすぎ……。てか絶対無理になるでしょ、あんた。』
あの時私が呆気にとられた訳を、きっとこいつは分かっていない。
私は、片瀬もきっと水泳部に入ると思っていたのだ。だから、迷う素振りもなく水泳を辞めてしまったことが、信じられなかった。
お前は私と一緒じゃないの。
泳いだり、馬鹿みたいに言い合いしたりしてプールで過ごすのが、楽しかったんじゃないの。
なんで勝手にいなくなっちゃうの。
ねえ、私を置いていかないでよ。
あの時から、ずっと胸の中で燻っていた気持ち。
片瀬だけじゃなかった。見回してみたら、皆が「今」じゃなくて、「未来」を見ていた。
私だけがずっと、「今」のことしか考えていなかった。
そう突きつけられる度、目も耳も塞ぎたくなった。
いつからだっただろう。それを忘れたくて、水の底に沈むようになったのは。
「栞。」
沈黙を破ったのは、片瀬だった。
「俺、大学行ったらまた水泳やるかも。」
「え?」
何急に。さっきまで留学とか、大学行ったらばりばり勉強する雰囲気出してたじゃん。
「勉強もやりたいんだけど、水泳もう一回やりてえなあって、最近よく思うようになってさ。社会人になったらそれこそ出来なさそうだし。」
やっぱ泳ぐの好きっぽいんだわ。と片瀬が続けた。
「高校生になったら少し大人になって、ずっと勉強にのめりこめんのかなー、って思ってたけどさ。飽きたな、辞めてえなって思うときあるし、たまにめっちゃ泳ぎたくてたまらなくなるし。」
ははっと乾いた声で片瀬は笑う。いつのまにかモナカはなくなっていた。
「そんなに変わってねえよ、俺。」
そっと付け足されたその一言は、初めて聞く優しくて温かい声だった。そっと溶けていくように耳に響いたそれに、じわりと目頭が熱くなった。気付かれたくなくて、そっと目をつぶって嗚咽と一緒に引っ込めようとした。
「そうだね、まだまだ子供だよ、片瀬は。」
「うるせえ、お前に言われたくねえよ。」
「私はブロックの上をゆらゆら歩いたりしないから。」
「それを落とそうとしてつついたのはどこのどいつだっけ?」
私の声は震えていたけど、それには触れないで軽口の応酬になる。
(ああ、悔しい。)
私の気持ちが完全に見透かされているらしいことも。
不本意ながら、その間合いに安堵させられたことも。
それに不本意だと感じるあたり、私の方が子供じゃないか、ということも。
ほう、っと息を吐く。喉の奥のひりつきが収まってきた。
「私も、大学とかその先のこと、考えなきゃな。」
今までずっと疎ましくて避けていたこと。初めて口に出してみたけど、以前ほど恐ろしくは感じなかった。
おお、っと片瀬が眉を上げた。
「いい心がけだなそりゃ。まあ最初はぼんやりとで、これがしたいなー、って思ったのを拾ってきゃいいと思うぞ。」
「ぼんやり、ねえ。」
将来の自分なるものを、「ぼんやり」浮かべようとしてみる。
大学行って、就職して、もしかしたら結婚してお母さんになって、それから先は。
考えているうちにふと、こぽこぽとあの大好きな音が湧き上がってきた。そして今までのイメージが、ふっと暗転していく。
ああ。なるほど。実に私らしい。
「死ぬときは、水の中で死にたい。」
唯一ちゃんと形になって見えた将来を呟いた。
目を見開いた後、盛大に声を上げて片瀬は笑い出した。
「そんなにおかしい?近所迷惑でしょ、やめてよ。」
「違うって、いや違わねえけど。ちょっと待てお前、っははは!」
けほけほ、と片瀬がむせた。
ほぼ無意識で口から零してしまったけど、そんなにおかしかったか。まあ普通ではないかもしれないけどさ、確かに。
「いやあ、お前ほんとぶれねえな。やっぱ水がなきゃだめか。いっそ魚にでもなっちまえよ。」
「せめて哺乳類か人魚にしてほしいね、そこは。」
「人魚って哺乳類じゃねえのか。」
「知らない。上半身だけ哺乳類なんじゃない。」
ああ、くだらないな。
でも、楽しいな。
「ねえ、拓海。」
久々に名前を呼んだ。たった三音なのに、なぜか特別な言葉みたいだ。
胸にじんわりと温かさが広がる。こいつは今、ちゃんと私の隣にいるんだ。
「泳ぎたいんなら、テスト明け市民プール行く?夏休み前なら、まだ空いてるでしょ。」
「お、行きてえ。鈍ってそうだなあ。最後に泳いだの、去年の体育だからな。」
「じゃあ私とがんがん勝負してさっさと取り戻すがいいよ。負けた分アイス奢りね。」
「おいおい、水泳部のエース様が文化部員に言うことかよ。」
片瀬が渋そうな顔をつくる。それがおかしくて、私は声を出して笑ってしまう。
いつも通りの、何気ない帰り道だ。
相変わらず、将来を考えるのは恐ろしい。やりたいことだって、ぼんやりとでもなかなか浮かんでこない。
でも、変わってしまうことだらけの中で、変わらないものがあることが分かったから。
少しは、ちゃんと地に足をついて、目を開き、耳を傾けられるようになってきた。
そうして見つけた、最初の将来への願い。
どうか、この空っぽだけど満たされる時間が、できるだけ長く、続きますように。
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