第六話「白い日焼け止め」

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第六話「白い日焼け止め」

あれから1週間が経ち、今日は二度目のスタジオ練習だ。 そして、中間テストの日でもある。 この一週間、私はテスト勉強に全く手をつけないまま、ギターの練習に明け暮れてしまった。ええい、ままよ。どうにでもなれ、と投げやりな気持ちで学校までの道のりを歩く。 五月も中旬に入り、少しずつ日差しが強くなってきているのが分かる。制服のブラウスが、半袖の子も増え始めて季節の移り変わりを感じる。 私も今日は半袖だ。白い日焼け止めを素肌に伸ばす。独特の匂いが鼻につく。 日焼け止めを塗って少し濡れた肌に、教室の窓から入る初夏の風が当たって気持ちがいい。それと同時に、季節の流れる速さに少しうろたえる。 優太にフラれてから、一ヶ月が経った。 まだまだ優太を思い出して泣いてしまう日もある。けど、フラれたての頃は、毎日泣いていたのが、次第に三日に一回になり、今は五日に一回のペースだ。 まだそんなに泣いているのか、と呆れる人もいるかもしれないけど、これでもかなり回復した。最初はお母さんが作ってくれる晩御飯すら喉を通らなかったけど、今は三食きちんと食べられるようになった。 食事に幸福を感じられない時期は本当に辛い。体と心は繋がっているから、食事が喉を通らないと、体の元気が無くなって、心はさらに元気がなくなる。 そしてまた体の元気がなくなり…という最悪のサイクルだ。 これだけ回復してきたのは、ダラダラと過ごす時間が少なくなったおかげかもしれない。最初はギターの練習すら優太を思い出すスイッチになっていて、泣きながら弾いていた。けど、弾いてる内に、ここが出来てないなとか、このフレーズはゆっくり反復練習しようとか考え始める。すると、つかの間だけど、優太が私の頭の中から出て行ってくれる。 そして、出来なかったフレーズを弾けるようになったとき、私はちゃんと、嬉しかった。 前回のスタジオは散々な結果だったけど、練習も重ねてきたし、今日は良いスタジオになると信じたい。でも緊張してしまう。 脱力が大事だと、影山先輩からも教わったのに。このあがり症はどうしたら治るんだろう。メンバーの皆は緊張しないんだろうか。 学校に着いてからも、私は放課後のスタジオのことが気がかりで仕方なかった。 テストの日だというのに、単語帳も開かずに下を向いている私を見かねて、真波が声をかけてくれた。 「春、生きてる?」 「あ、ごめん、生きてるよ。今日の放課後、スタジオだから緊張しちゃって。」 「そっか…。応援してるね。私、春がまたバンド始めるの凄く嬉しいんだ。先月の春のライブ、本当に格好良かったもん。」 「ありがとう…」 バンドなんて、いくら桜井くんに誘われたとはいえ、結局私がやりたくてやってることだ。そんな自分勝手にやり始めたことを喜んでくれる人がいる。それが一人であろうと、今の私にとっては物凄く心の支えだ。 それが一人じゃなくなって、十人、百人と増えていったら、どんな気持ちなんだろう。想像すると胸が熱くなるし、同時に、胸が痛くなる。ダメだ、やっぱり緊張する。 「ねえ、真波は緊張とかする?」 「私はまさに今、テスト直前だから緊張しちゃうなあ。勉強してない日はね、全然緊張しないの。はいどーでもいーって感じ。良い点取れるわけないって結果が見えてるしね。 でも、凄く頑張って勉強したときは凄く緊張するの。努力が報われなかったらどうしようとか、ドジしたらどうしようとか考えるのね。」 私はうんうんと首を振った。 「わかるなあ。私もそういうこと考えちゃう。」 そんな私を見て真波が笑った。 「だよね。ってことは、春は努力したから緊張するんだよ。 でね、努力したのに思ったように点数が取れないこともある。凄く悔しい。 自分より点数の高い子もいる。 でも勉強しなかった自分の点数よりは、勉強した自分の点数の方が、絶対に良い点なんだよ。」 そうか。必死に練習したから緊張するのか。 そして、もし練習の成果がうまくスタジオで出せなかったとしても、練習しなかった私よりは、今の私の方が、きっと上手くなってる。 そう思うと、妙に安心してしまって、緊張の糸がスルスルとほどけていく。そしてなぜか、涙腺も一緒にほどけていく。私はせっかく五日に一回にとどめることが出来ていた涙を、ここで使ってしまった。ポロポロと涙をこぼす私を見て、真波が驚く。 「えっ!?嫌なこと言った!?ごめん!!」 私はブンブンと首を振った。頰を伝った涙の一粒が、口の中に入ってくる。優太のことで泣くときの涙より、甘い味がした。 ◇ テストはびっくりするほど散々だった。何も勉強していないのだから当たり前だ。 ちょっとでも勉強しとけば、ここまで答案に何も書けないなんてことはなかったのに。 真波の「勉強しなかった自分の点数よりは、勉強した自分の方が絶対に良い点」という言葉が、思わぬ形で突き刺さる。 桜井くんが私と同じような、憔悴した顔で声をかけてくる。 「…テスト、どうだった?」 「最悪だったよ。そっちは?」 「問題が解けなさすぎて、めちゃくちゃ時間が余った。だから寝た。」 「か、悲しい話…」 「まあ、終わったことは仕方ないしな!よし、スタジオ行くぞ!」 桜井くんは、さっきの憔悴した顔が嘘のように、もうあっけらかんとしている。 次の目的に意識を持って行ってるようだ。この切り替えの速さは桜井くんの長所だなと思う。 お昼十二時半にテストが終わるため、ミルキーウェイのスタジオは一時から三時で予約していた。健太くんと中原くんとも校門で合流する。 お昼ご飯を食べる時間もあまりないため、皆で食堂のパンをかじりながら急いでスタジオに向かった。 太陽が昇ったからか、五月中旬とは思えないほどの熱い日差しが私たちを照りつける。桜井くんが文句を垂れた。 「あっついなー、俺日焼けしたら、肌が赤くなるタイプだからやんなっちゃうよ。」 それなら、と私はカバンから日焼け止めを出した。 「私、日焼け止め持ってるよ。貸してあげる。」 桜井くんは少し悩んでから、首を振った。 「ごめん!いいや!めんどくさいし、俺、日焼け止めの匂い、嫌いなんだ。でもありがとね。」 「確かにねー、独特の匂いはするよね。ベタベタするし。」 私は、自分の分だけ日焼け止めクリームを手に取り、肌に塗り直した。日焼け止めクリームでテカった腕が太陽の光を反射して、やけに白く光った。 スタジオクレイジーバードに着くと、今日も今日とて矢島さんはハードロックの爆音の中で寝ている。 桜井くんが率先してスタジオに入る。 「おはようございまーす!」 矢島さんが目を覚ます。 「おはよ。Aスタジオね。」 はーい、と言いながら3人がAスタジオに入っていく。 先週叱られたからか、健太くんと中原くんは少し気まずそうだが、矢島さんは何事もなかったように、いつも通りの案内をする。 私は、また眠ろうとする矢島さんの肩を軽く叩いて起こした。矢島さんがビクッとして私を見る。 「どうしたの?」 眠そうな顔で聞く矢島さんに、私は頭を下げた。 「メンバーに、いろいろ教えてくれたみたいで…。私も勉強になりました、ありがとうございます。」 矢島さんは「今日もよろしくね。」と笑って、再び眠った。 私は少し緊張しつつも真波の言葉を思い出しながら、落ち着いてギターをセッティングした。先週より練習した今週の方が、きっと少しは良くなる。大丈夫。 桜井くんは今日も一早くセッティングを終えて、私のマイクのセッティングを手伝ってくれた。しかし、前回とは違って、スピーカーにマイクが向かない位置を探して、マイクのボリュームを上げてもハウリングが起こりにくいよう配慮してくれた。 皆セッティングを終えて、定位置につく。 「じゃあ、合わせようか。」 健太くんが頷き、ドラムのフォーカウントを鳴らした。 皆で1音目を鳴らした瞬間に桜井くんのギターの音が明らかに変わったのが分かった。 音は相変わらず大きめだ。でも、先週は耳にビリビリ刺さるような音だったのが、今日はどちらかというと、肌をビリビリと震わすような音だ。 健太くんも、ぎこちないが、丁寧に叩くことを意識してくれているように思う。中原くんはその二人を繋ぐように、暖かい低音を刻んでいる。 息を吸う。緊張する。でも、興奮する。緊張と興奮が混ざり合って、脳みそを揺らすように身体に血液が巡った瞬間、私の身体から声が鳴った。 私の声が聴こえる。バンドの中で歌っている。 緊張で強張っていた身体が、ほどけていくのが分かる。 影山先輩が言っていた脱力を少し体感する。心地いい。 海の中で泳ぐのと似ていると思った。バタバタすると苦しくて溺れそうになるけど、体の力を抜けば、気持ちがいい。そして、生きていると実感する。 一曲歌い終わったとき、まるで海から上がった時のような、爽快感と、倦怠感が身体を襲った。皆も同じような顔をしている。 桜井くんと目が合う。 桜井くんは、何も言わずに、犬歯がはっきり見えるくらい、ニカッと笑った。 ◇ やっぱり健太くんはぎこちないとか、中原くんのベースにはもっと勢いが欲しいとか、桜井くんがギターソロをミスったとか、私が歌詞を飛ばしたとか色々問題はあったけど。色々文句も言いあったけど。 二時間の練習を終えた後、桜井くんがボソッと呟いた。 「…楽しかった。」 私は桜井くんの、珍しくしおらしい姿に、優しい気持ちになった。 「うん、私も。桜井くん、音良くなったね。」 桜井くんは目の横のシワと口角がくっつくんじゃないかというくらい、今までで一番嬉しそうな顔で笑う。 「研究したんだ!音量のボリュームは大して弄ってないんだけど。 今までは音を歪ませすぎて、ハイの成分が思ってる以上に出てたみたいなんだ。だからゲインは少し落とした。 その代わり、ミドル成分は増やしたんだ。そしたら音がツヤっぽくなった。 でも、歪ませて誤魔化すことが出来ないから、下手くそがバレるんだ。 だから今週は、超練習したよ。おかげでテストは惨敗だ。」 私は音色の話にまだ疎いので、よく分からないまま相槌を打った。 話の大半はよく分からなかったけど、桜井くんが頑張ったことはよく分かった。 それにしても、男の人は好きなものについて熱く語るとき、お気に入りのゲームの攻略法を見つけたみたいにはしゃいでいて、少し可愛らしい。少年の目。 優太もあんな目で好きなものについて語る時があったな。私はまた優太のことを思い出してしまったけど、それは不思議と、今までのような黒い感情ではない。 私は、懐かしいような気持ちで、思い出を反芻していた。 外に出ると、日差しはまだまだキツかった。桜井くんが悲鳴を上げる。 「暑いーー!!アイス食べたいわ!!」 「アイス、買いに行こうよ!私チョコミントのアイス食べたい」 健太くんがウエーっと声を漏らした。 「俺、チョコミント苦手。歯磨き粉の味するもん。」 中原くんがそれを聞いて笑う。 「俺、チョコミント大好きだから、これから歯磨きするの好きになりそう。」 結局、皆スタジオの近くのコンビニでアイスを買った。 制服でアイスを食べながら友達と歩く初夏。 なんだか青春ドラマみたいで私は浮き足立った。 私が食べているチョコミントアイスを、健太くんがジッと見つめる。 「なんか美味しそうに見えてきたな…」 「じゃあ、一口あげるよ。」 健太くんは恐る恐る、チョコミントアイスを口にする。 うん、いけるいける…と言っていたのもつかの間 「やっぱ無理、歯磨き粉かじってるみたいだ。うぇぇぇぇ」 と情けない声をあげたので、皆盛大に笑った。 私は心から笑った。楽しい。こんな気持ちは久しぶりだ。 チョコミントの清涼感と甘みが口の中に広がるように、私の心の中にも、涼しくて甘い風が吹き抜けるような感覚を覚える。 一ヶ月ぶりに心の底から笑っている気がする。 スタジオも楽しかったし、今みんなと話しているこの時間もこの上なく楽しい。 私たちがケタケタと笑っていると、目の前からカップルが歩いてきた。 同じ学校の制服だ。カップルを見ると辛くなるだけだったし、妬んでしまっていたけど、今だけはカップルを見ても、なんとも思わない。 健太くんがカップルを見て呟いた。 「いーなー。制服デート。俺も彼女欲しいーーー!中原が羨ましいよ、可愛い彼女がいて。」 私は少し驚く。 「え!そうなんだ!写真ないの?」 中原くんが恥ずかしいから嫌!とか言ってごねている間、桜井くんはずっと、カップルを凝視していた。 どうしたんだろう、と私もカップルの方に目をやった。 そして、見なければ良かったと思った。 カップルだと思った二人は、影山先輩と愛子だった。 二人はまだ私に気付いていない。仲よさげに話している。 それだけならよくあることかもしれないけど、二人で下校しているなんて。 私の心臓がドッと動くのが分かった。軽くなっていた胃が重さを増していくのを実感する。 でも、軽音楽部の買い出しとかで、二人で歩いているだけかもしれない。大丈夫。大丈夫。 そう思いながらも目を離せないでいると、愛子が日焼け止めクリームをカバンから出した。そして、白いトロッとした液体を手に取り、影山先輩の腕に塗ってあげている。 撫でるような手つき、じっとりとした触り方、そして何よりも、そんな愛子を眺める影山先輩のうっとりとした目で、二人の関係が先輩後輩以上のものであるのが分かった。 いよいよすれ違うというとき、二人はやっと私に気付いた。 愛子も影山先輩も、見られてしまったという顔をしていたが、観念したように、影山先輩が私に声をかけた。 「春ちゃん!びっくりした!その人たちがバンドメンバーなんだね」 健太くんと中原くんが、あ、どうもどうもと会釈をする。桜井くんは二人を凝視し続けている。 私は物凄く努力して、平静を装った。 「先輩、前はありがとうございました。今日の練習は楽しかったです。」 泣くな。私。泣くな。 努力の甲斐あって、影山先輩は私の異変には全く気付いていないようで、ニコニコして話し続ける。 「そうなんだね、良かった!それでね、バレちゃったと思うけど、俺、実は愛子ちゃんと付き合ってるんだ。 軽音の皆にバレたらめんどくさそうだし、優太とか、絶対茶化すでしょ。だから内緒にしてね。」 そりゃ、めんどくさいだろう。影山先輩は、どうやら優太と愛子の関係を知らないみたいだ。 その証拠に、今目の前で、こんなに無垢に笑っている。隣で黙っていた愛子も、おずおずと私に話しかけてくる。 「春さん…久々に話せて嬉しいです。バンド始めたんですね。またライブ、見に行きますね!」 私はグッと自分の手を握りしめた。握り込みすぎて爪が手のひらに食い込んでいる。耐えろ。泣くな。私。耐えろ。 「うん…いつでも見にきてね。」 影山先輩が「俺も見に行くよ!じゃあまた!」と言いながら去っていく。 愛子と一緒に。 私は耐えた。耐え抜いた。心が今にも暴れ出しそうだ。 私が大好きだった優太も、大切な先輩も、愛子に吸い寄せられていく。 愛子が怖いし、どうしても、憎い。せっかく今日は楽しかったのに。 しかも影山先輩のアドバイスのおかげで、上手くいったのに。 どうして愛子は私の大切なものばかり奪うんだろう。 そして、どうして私に会っても、あんなに普通の顔が出来るんだろう。 どうして、ライブを見に行きます、なんて言えるんだろう。 私は、魂が抜けてしまったかのように、呆然と立ち尽くしていた。 そんな私を知ってか知らずか、桜井くんは二人の後ろ姿を睨みながら、吐き捨てるように言った。 「俺、やっぱり、日焼け止めの匂い、嫌いだわ。」
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