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義勇編:夏江の才姫
――彩の国・紅州。
五州からなる広大な国は東西南北に州都を持ち、独立した自治と州軍を有する。
その南方にある紅州は南の荒野を国境とする強軍州であった。
それというのも夏から秋にかけ、この荒野を遊牧民族が襲撃にくる。毎年のように国境を危ぶまれ、それを撃退するために軍を強化せざるを得ず、やむなくというのが実情だ。
州軍も遊牧民の撃退だけに人員を割くわけにはゆかない。この時期は軍が手薄になり、州内で盗賊や人攫い、人殺しなども増えるのだ。
国境は守らねばならないが、同時に自治領の治安も守らなければならない。日々犠牲も出るので人員は減る一方。到底年に一度の州兵登用試験のみでは手が回らない。何より年中そんな人員を抱えては軍費で首が回らなくなる。
そういう事情もあり、毎年この季節には義勇軍募集の立札が出るのだ。
紅州・夏江。
町の中央を流れる川にかかる橋の袂に立った札を、一人の美女が睨み付けるように見ていた。
そこらを歩く女性よりも頭一つは長身で、手足が長く色が白い。そのくせ頭は小さく、切れ長の涼しげな目は深い緑色をし、豊かな黒髪は鴉の濡れ羽色をしている。鼻梁は通り、唇は薄く紅を差したように色付き、知的かつ気品ある身のこなしは凡人の中に溶け込めずに浮いて見える。
彼女はこの町の道場の娘で、名を秀清と言う。
齢二十歳を過ぎて結婚もせず、書と親しみ武芸を友とする変わり者であった。
だが同時に、この町に彼女以上の才女はなく、同時に彼女以上の武芸者もない。例え男でも彼女の前では赤子のようで、町で何か問題が起ると彼女を頼る人も多かった。
立札には毎年同じ文言が書き連ねられる。
『義勇兵求む。
我こそはという者は南砦へ来たれ。
武功いかんでは褒美を取らせ、武官へと取り立てるものとする』
武官。だがそれも、女の秀清には到底無理な話だった。
睨み付け、手を握る。立ち去ろうと足は向かうのだが、名残惜しいと目はまだ立札を追う。どんなに夢を見ても叶わぬと分かっているのに未練がましい。憎い敵でも見るような目で一瞥をくれ、ようやく秀清はその場を後にした。
秀清の父は紅州の州都で武官をしていた。当然その娘である自分も、武官になれると幼い彼女は思っていた。
が、それは叶わぬ事だった。
どれほど書を読み学を修めても、女の身では官吏になれない。どれだけ武芸を磨いても、女の身では武官になれない。それは明記せずとも皆が知る、当たり前の事だった。
女は頃合いになれば結婚して家に入り、家を守り子を産み育てるもの。そうしない者はむしろ変人という見方をされる。故に学は最低限でよく、武芸などもってのほかだ。
事実、秀清と同い年の女子は彼女以外、皆結婚して子を成している。
だが秀清はそんな生き方は嫌だった。どうして、誰かに行く道を決められなければいけない。自らの力と可能性を試す事も許されず、誰かに身を任せて生きて行く。そんな生き方は、絶対に御免被る。
願わくば、武官になりたい。危険も承知している。この手に剣を握り、体の限界まで手足を動かし、命を燃やして生きてみたい。戦う時が、剣を振るう時が、大きく手を動かし強く地を蹴る瞬間が、一番生きている実感を得られるのだ。
思慮の海に沈む。その耳に不意に、女性の悲鳴と「誰か!」という声が聞こえて、秀清はハッと我に返った。
顔を上げたその先で、近所の老女が倒れている。男がその風貌に似合わぬ荷を掴み、秀清のいる方へと走ってくる。
「おらぁ! どけどけ!!」
怒鳴り声を上げながら走ってくる大柄な男を避けて人々が道を空ける。が、秀清だけがそこをどけなかった。
「どけぇぇぇ!」
秀清を突き飛ばす勢いの男。だが、秀清は片足を一歩引いて腰を落とし、腹にどっしりと力を入れて迎え撃つ形を取る。そして、男のひげ面を横合いから華麗な足技で蹴り飛ばした。
見事に決まった上段蹴りは男の側面を捕らえて振り抜かれ、男は僅かに足を浮かせてその場に倒れた。白目を剥いて気を失った男から荷物を取り上げた秀清はまったく変わった様子もなく、それを起き上がった老女へと手渡した。
「気をつけないと、お婆ちゃん。この時期はこんなのが多くなるんだから」
「秀清ちゃん、有り難う」
老女は目に涙を浮かべて秀清に礼を言う。それに、ただ見守っているだけだった町の人々も安堵の表情をする。が、誰も秀清を賞賛したりはしない。それどころか女性の中には小さな声で「野蛮だわ」「はしたない」と、秀清を蔑む声まである。
聞こえていないと思っているのだろうが、残念な事にこうした声はよく聞こえる。それでも、秀清は凜と立つのだ。
場が騒がしくなり、人垣を越えて複数の男が走ってくる。その先頭を走る若い男に、秀清は目を留めた。
「柳文、遅いわよ」
硬そうな黒髪に黒目の青年に向かい、秀清は腰に手を当て棘のある声で言う。それに、柳文と呼ばれた青年は憮然とするのだ。
「仕方ねぇだろ、知らせが遅れたんだ」
「まったく、しっかりしてよ。この季節はこういうならず者が多いのは分かっているでしょ」
「分かってたって対処しきれるか。あっちでも盗みだなんだって騒いでてよ」
「どんどん私に手柄を取られるわね」
「くそっ」
そんなやり取りをしている間に伸びている男はお縄にかかって連れて行かれる。声をかけられた柳文もまた秀清に背を向ける。何か、言いたげな顔で。
見送るその背が遠ざかる。こんなにもやるせない。町の自警団にすら入れないのだ。
「秀清ちゃん」
声をかけられて振り向くと、先ほどの老女がニコニコと笑い、秀清にあめ玉を一つ手渡してくれる。まるで幼い子を褒めてくれるような顔だ。
「いい子ね、秀清ちゃん」
「お婆ちゃん……有り難う」
棘だらけのギスギスした心が、ほんの少し解れたようだった。
頼まれた買い物を終えて家に帰れば、秀清の帰りを待っていたかのように二歳の弟が足下に抱きついてくる。見上げる大きな黒い目を、秀清は目を細めて笑いかけた。
「ただいま、吾兎」
まだぽよぽよした産毛のような髪を撫でてやると、弟はにぱっとお日様のような笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、秀清ちゃん! ごめんね、急にお買い物お願いしちゃって」
秀清が帰って来たことに気づいたのだろう。お勝手からまだ若い女性が顔を出す。若いと言っても秀清よりは十ほど上だが。
「ううん、平気よ義母様」
にっこりと微笑んだ秀清が買ってきた食材を彼女に渡し、代わりに足下の弟を抱き上げる。きゃっきゃと笑う姿に、秀清は穏やかな顔をした。
秀清の産みの母は、彼女が五つの時に亡くなった。とても、綺麗な人だったらしいのだが五歳の秀清はよく覚えていない。
その後、幼い秀清を一人家に残して仕事に行くことが出来なかった父が雇ったのが、義母だった。母というよりは年の離れた姉のような気持ちで接してきて、父が一線を退いて故郷である夏江へと戻っても、義母はついてきた。
理由はなんとなく、分かっていた。かなり年は離れていたが、義母は父の事が好きで、父は義母を愛し始めていた。
夏江へと戻ってきたのが秀清が十歳の時。その年に互いの事を打ち明けられ、秀清は二人の気持ちを尊重した。産みの母の事が薄れかけ、義母とはすでに家族だった。父も仕事で足を悪くしていたし、支えてくれる人は歓迎だった。
秀清は義母を得て、しばらくは三人で生活をして、義母は今でも秀清を実の子として接してくれる。だが、明確な線も出来た。それが、弟だった。
弟が生まれて、秀清は自分だけがここの家族とは少し違うのだと思い始めている。自分だけが、義母と血が繋がっていない。両親は今までと同じく優しく、時に厳しく秀清に接してくれる。これは秀清の心の持ちようで、感じ方の違いでしかない。分かっているのに…………この思いは日々、深くなるように思う。
幼い吾兎の手を引いて家の奥へと行くと、対面から父が歩いてきて秀清に気がつく。そして穏やかに微笑むのだ。その右足は僅かに引きずるようにしている。
父は紅州武官として長年勤めてきた。だが秀清が九つの時に右足を負傷し、今も僅かに痺れがあるようで引きずっている。
それでも父は穏やかで、怪我の事や不自由を嘆いたりはしなかった。これ以上良くなる事はないと知ると退役し、生まれ故郷の夏江へと戻り武術と学問の道場を開いた。負傷していても子供に武術を教えるくらいは動けた。
今は老齢もあり、武術道場のほうは秀清が教えているが。
「秀清、帰ったのかい?」
「はい、父様」
穏やかそのものに微笑む父に微笑み返した秀清だったが、この父は案外鋭い。直ぐに秀清の心の影を見抜いたのか、僅かに首を傾げた。
「何かあったかい?」
「え?」
「少し、元気がないように思うが」
こういう所が、困るのだ。秀清が隠しておきたい感情を見抜かれてしまう。女に生まれ、女の生き方に反発していること。義母と弟がいて、自分が異分子のように思えていること。どれも優しい父は申し訳ない顔をするだろう。
男に生まれるか、女に生まれるかを父が決められるわけもない。義母と再婚したことや弟が生まれた事を秀清だって恨んだり、憎んだり、妬んだりしているわけではない。
単純に、自分の捉え方と考え方の違いなのだ。
「そう? いつも通りよ」
「秀清」
「吾兎と遊んでくるわ」
結局はこう言って逃げるように父の前を過ぎていく。でも、仮面が剥がれるのはいつなのか。そんな事を、最近は強く思うようになっていた。
庭先で吾兎と遊んでいると、義母がパタパタと駆けてきて秀清に来客を告げる。言われて表へと回ると、手に土産を持った柳文が立っていた。
柳文とは幼馴染みであり、同じく父に武術を習った同門であり、腐れ縁でもある。今もそれなりに仲が良く、互いに会えば何でもない世間話をする間柄だ。特に柳文の実家は酒家をしているので、秀清も食事に行く事がある。
ただ、ここにも溝はあった。柳文は成人して日中は自警団、夜は実家の手伝いをしている。それが秀清には羨ましくてたまらないのだ。
「よっ」
「どうしたのよ」
「うちの団長から、今日の礼」
お土産の包みを軽く見せる柳文を、秀清は苦笑して家に上げる。ささやかな縁台にお茶の準備をして置いて、柳文の持ってきた包みを開けた。
「豆沙包!」
「お前好きだろ?」
「好き! 団長相変わらず太っ腹ね」
手の平に乗る大きさの真っ白い豆沙包は生地はモチモチと柔らかく、中にはあんこが詰まっている。一口大にちぎって口の放り込み、さっぱりとした緑茶で流し込む。
「はぁ……幸せ」
「そりゃ良かった」
同じように柳文も豆沙包を食べるが、進みは遅い。彼が半分を食べ終わる頃には、秀清は一個食べ終わってしまった。
「……俺の半分食うか?」
「食べる!」
呆れ顔の柳文がちぎって置いていた半分を差し出してくれ、秀清はそれを有り難く頂く。嬉しそうに食べる秀清を見て、柳文は可笑しそうに笑った。
「お前のそういう所、ガキの頃と変わらないな」
「いいじゃない、好物なんだもの」
「あぁ、知ってるよ。団長も感謝してた。まぁ、外聞とかあるから表だって礼を言いづらいってのがあるけどな」
そう言われてしまうと、この豆沙包も味が落ちる。最後の一口を放り込み、お茶で流し込んだ秀清は少し沈んだ顔をした。
「気にしなくていいわよ。この時期は増えるもの」
「悪い」
「気にしてない」
「気にしてないって顔してないだろ」
指摘され、秀清はそっぽを向く。その手は強く握られていた。
女の秀清が自警団を差し置いて盗人を捕らえる事は、自警団にとっては面白くない事だ。被害に遭った人にとっては犯人を捕らえたのが自警団でも秀清でも感謝されるのだろうが、あくまで秀清は一般人で、女性。本来なら自警団が守らなければならない側の人間なのだ。しかも「女に手柄を取られて面目丸つぶれだ」と考える人もいる。
くだらない。思うが、この世はこうしたくだらないことで溢れている。理不尽が蔓延している。
秀清は自警団の誰よりも強い自信がある。けれど、女であるという一点で自警団にすら入れず、善行を行おうとも陰口をたたかれるのだ。
「なぁ、秀清。辛くないか?」
沈んだ声で問われ、秀清は黙った。
辛くないか? 辛くて悔しくてたまらない。けれどきっと、柳文の思う理由ではない。
「俺も、雨玄も秀清の事を心配してる。町って言ったってそれほど大きくはないんだ、お前の事を皆噂してる」
「知ってるわよ。もう何年も前からじゃない」
「……形だけでも、結婚しないか? そうすれば少し生きやすくなるだろ? 俺や雨玄なら、お前を縛るような事は」
「やめて」
そんな事、考えた事もない。
柳文ともう一人、ここ夏江の県令の息子である李雨玄は同じく幼馴染みで同門で、腐れ縁。二人とも友人で、大切な人ではある。けれど……だからこそ、結婚なんて方法で繋がりたくない。
どうしたって二人は幼馴染みで、親友。それ以上にも、それ以下にもならない。そんな人と所帯を持ったって、そのうち違う辛さに苛まれるだけなんだ。
「私は平気、慣れてるもの。陰口だって今更だし」
「けど!」
「それに私、自分よりも弱い相手とは結婚しないのよ。私よりも博識で強くなってから挑みにいらっしゃい」
「無茶言うなよ……」
悔しげな顔をして頭をかく柳文を笑って、秀清は心の中で溜息をつく。そして、心優しい幼馴染みにひっそりと謝罪するのだった。
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