クッキーの甘さ

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クッキーの甘さ

 たったそれだけのこと。  ひとこと、いつもしているように気楽な挨拶をするだけのことができなかった。  きっと今日も部室に行けば宏輔に会えるだろう。当たり前のようにそう思っていた。事実その通りだったのだけれど、彼のところには先客がいたのだ。軽音部の1学年下の由美ちゃん。真剣な顔で何か相談しているようだった。ドアにはめ込まれた窓越しに、時折上目遣いに宏輔を見やる様子が見えた。何も考えずに声をかければいい。そう思っても扉を開けることができなかった。2人をじっと見ている自分が卑しく感じられてしまう。目の前の光景を振り切るようにふるふる、と頭を振って来た道を引き返すことにした。 「今日はもう帰るの?」  降ってきた声の方に顔を上げると、そこにいたのは雅浩だった。 「うん、そんなとこ」  宏輔が他の子と話していたから声をかけられなかった、だなんて子供じみたことを話せるわけがない。じゃあまたね、と階段を登り始めると、なぜか雅浩も方向を変えて私についてきた。 「部室に用があったんじゃないの?」  少し振り返って問うと、菜央に会えたからもう用は済んだよ、と爽やかな答えが返ってきた。雅浩はよく気がつく人だ。本当のところはわたしに用事があるわけではないのだろう。 「もう、まさはいつも答えが完璧だから困っちゃうよ!」  ハハ、と笑うその様子に高校生のときにはなかった余裕が垣間見える。私は、あの頃より成長できているのだろうか。 「あ、ねえ、アイス食べよう!」  雅浩は唐突にそう宣言すると、スタスタと学食へ向かって歩き始めた。 「菜央はどっちがいい?」  学食の一角にあるいつもの売店に入ると、雅浩は”本日のソフトクリーム”と書かれた小型のホワイトボードを指差した。 「ミルクティー味かな、ってまさ、待って!」  雅浩はこちらが財布を出す間もなく支払いを済ませてくれた。プレゼントと言われてしまったら、素直に甘えるほか無くなってしまうではないか。いつもの席につくと、雅浩は嬉しそうにニコニコしながらソフトクリームを食べ始めた。雅浩に甘党なイメージは無かったけれど、ここのは甘さ控えめで美味しいから気に入っているのだろうか。  ぽつり、と、菜央は変わらないよね、と言われソフトクリームを掬う手が止まった。先ほど自分でも同じようなことを考えていたからだ。同時にやっぱり変わっていないのかと、少しがっかりした。 「あ、あれは!ノートの代わりだから」  宏輔相手のときと態度が違う、と指摘されて勢い込んで反論してしまったのは、宏輔の話が出てドキッとしてしまったから。  彼は最初からそれを見込んでか、学部共通の教養科目は私と同じ講義をとっていた。気まぐれに休んでいる宏輔にノートを貸す代わりに、お菓子を買ってもらうのは半ば試験前の恒例行事のようになっていた。こちらからは何もあげていないのにもらうのとは違うではないか。しかも、買ってもらうといってもいつも2人で食べているし、買うものも意見が分かれればじゃんけんで決めるというルールがいつの間にかできていた。どう見てもフェアじゃないけれど、なんだかんだじゃんけんをすることが楽しいのだ。  ぐらり、と目が眩むような感覚に襲われた。心の基盤が揺らいだような。今日はもうダメみたいだ。もう一度お礼を言って、どうかした?と問われる前に先に帰ることにした。申し訳ないけれど、今の気分を説明できそうになかった。
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