クッキーの甘さ

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 うまくいかないときは、歩くに限る。この言葉を聞いたのは、祖父からだったか。最近田舎に帰れていないなあ、なんてとりとめのないことが、歩くスピードに合わせて頭を通り抜けていく。一つのことに拘らなくてすむ、この感じが散歩の効用なのかもしれない。 「菜央!」  大きな声に振り返る間もなく、強く腕を引かれた。顔を上げると、赤信号が目に入った。サッと血の気が引くのがわかった。結構なスピードで走り去る車。引き止められなかったらどうなっていたのか想像したくなかった。 「危なっかしくて、見てるこっちが怖いんだけど」 「こうちゃん•••」  恐怖で固まった身体は、なかなかいうことを聞いてくれない。やっとのことで後ろを振り返ると、宏輔は口ぶり以上に心配そうな表情をしていた。 「ほら、青になったから行こう」  腕から手へと、位置を変えて握り直した手に優しく包まれた。横断歩道を渡り、いつもの通りの帰り道を進んでいく。宏輔はどうしてここにいるのだろうか。まさか、雅浩に聞いてきたのか。宏輔なら、そうするかもしれない。宏輔は、高2で話すようになってからずっとそばにいてくれた。だから、あんな些細なことで心のバランスを崩すなんて、自分はどこまで弱いのだと苦しくなる。そっと見上げると、宏輔の首筋に汗が滲んでいた。 「もう離しても大丈夫だよ」  私の手を引いてほんの少し前を歩く背中に向かって声をかける。顔を見る勇気が出なくてわざと少し遅れて歩いているのだ。 「離さないよ。なにも危ないからってだけじゃなくて、今はこうしていたいから」  その言葉の強さに、胸を打たれた。手を繋いでいたいと、子どもみたいな宏輔の願いに優しく包まれている感じがした。それきり何を話すでもなく、目も合わせることもなく家まで送り届けてくれた。優しく握られた手の温もりだけが宏輔の存在を主張している。多くを語らないけれど、宏輔はいつも本当のことを話してくれる。それなのに、話しかける努力もせずに私はあの場から引き返してしまった。もっと強くならなくてはいけない。宏輔と向き合っていくために。もちろん、雅浩と、裕太ともだ。  構ってもらって機嫌をなおして。どこまで子供なのだとウンザリしてしまうけれど、ふたりの優しさに触れられて幸せを感じてもいた。バンドメンバーは、呆れずに何度でも私に手を差し伸べてくれる。ストレートな甘さではない、学食のソフトクリームみたいな、マーブル模様の感情だった。まだ微かに残るソフトクリームの甘さが、苦い心をそっと撫でてくれている感じがした。
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