ドアの向こうに女がいる

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ドアの向こうに女がいる

 三年ほど前の話だ。  当時俺は、ワンルームのアパートに一人暮らしをしていた。  夜なのに、インターホンが鳴った。  はてなと思いドアスコープを覗いたら、 「こんばんは」  若い女が立っていて、頭を下げてくる。  髪が長くて、目元がよく見えない。ただ口元は笑っていた。 「ちょっとだけお話いいですか? 少しだけでいいんです」  正直、ぞっとした。  夜にいきなり見知らぬ人が訪ねてきて、ドアを開けるやつがいるだろうか?  ましてこちらの気配を感じて、ペコリとしてくるような女だぞ。気持ちの悪い。  セールス?  あるいは強盗?  それとも、なにかの勧誘……?  なんにせよ、ろくなもんじゃないだろう。  俺は当然、無視した。  ドアの前から離れる。  コンコン。  ドアをノックされた。  もちろん無視だ、無視。  やがて数分経つと、ノックが聞こえなくなった。  帰ったのかな? 不気味な女だったな。 「まったく、オートロックもないアパートは、これだから……」  ボヤきつつ、俺はトイレに入って、  コンコン。  トイレのドアがノックされた。 「ちょっとだけお話いいですか?」  絶句。  汗が噴き出た。  瞬時に俺は、ドアの鍵をロックした。  声はドアのすぐ向こうから聞こえた。  いる。……トイレの前に女がいる!  さっきの女が家に入ってきたのか!?  いや、けれど俺の部屋はワンルームだ。  侵入者がいればすぐに分かる。それなのに、俺がトイレに入った瞬間にドアはノックされたのだ。  どういうことだ!? 俺はひたすら混乱、困惑、恐怖を感じ、  コンコン。 「少しだけでいいんです」  コンコン。 「ちょっとだけお話いいですか?」  俺は、携帯電話をトイレの中に持ち込まなかったことを後悔した。助けを呼ぶことはできない。  ただ純粋に怖かった。得体の知れない、あの髪の長い女がこの薄っぺらいトイレのドアの向こう側にいるのかと思うと、全身がこわばる思いだった。  ひたすら沈黙。  それから、おそらく何時間もの時間が流れた。  トイレの向こう側に、きっといるであろうあの女。気配は消えない。それどころか、  はぁ……  はぁ……はぁ……  息づかいさえ聞こえてきた。  ドアの向こう側から、激しい呼吸の音がする。   俺はひたすら、一睡もせず孤独と恐怖に耐えていた。  誰か、誰か助けてくれ、泥棒でもいい、家に入ってきてくれ。そう思いながら。  ……ドアはもう、三時間近くノックされなくなった。  聞き耳をたてる。なんの音もしない。外にひとの気配もしない。  俺は心から警戒しながら、ゆっくりとトイレのドアを開けた。  ……誰もいない。  薄暗いワンルームの中に、人影は見えなかった。  安心した。  玄関ドアを見ると、やはり鍵もチェーンもかかっていた。  窓も鍵がかかっている。これでひとが入ってこられるはずがない。俺は初めて安堵した。 「幻だ。きっと幻聴だったんだ」  そう思って、ふーっと息を吐いた。  コンコン。  背中を叩かれた。 「お話、いいんですね?」  耳元で、ささやくような声音。  反射的に振り向いた。女が数センチ前、まさに目と鼻の先に存在していた。  満面の笑みで、両目は真っ赤に血走って、青白い肌は、爬虫類あたりの腹を思わせて――  次に気が付いたとき、部屋のど真ん中で大の字になっていた。  俺は気絶していたのだ。覚醒した俺は、汗びっしょりで吠えまくりながら、跳ねるようにして立ち上がり、部屋を飛び出した。  それから友達の家に転がりこんで、一泊し、翌日、その友人といっしょに部屋に戻った。  女はどこにもいなかった。  悪い夢でも見たんだよ、と友達は言った。  だが俺はもう、恐怖に耐えきれず、すぐに不動産屋に連絡を取り、すぐにその部屋を退去した。  あの経験はなんだったのだろう?  女は亡霊だったのかどうか。  いまとなっては、分からない。  ただいまでも、トイレに入っていると、聞こえるような気がするのだ。  あの、コンコン、というノック。  振り向くたびに、立っているかもしれないと思うのだ。  あの白い肌をした、不気味な笑顔の女が。  あの女は、トイレのドアの向こうに、いまもいるような気がする。
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