タッチの差

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タッチの差

 写真の母は、穏やかな笑顔を和也(かずや)に向けていた。優しい笑顔の中で、意志の強さが瞳に現れている。 母親の涼子は、対外的には物腰は穏やかで静かな人だったが、一度決めたら決してあきらめない人でもあった。愚痴を言わず、人生に前向きに対峙(たいじ)していた。 しかし、その頑張りが、子供たちに対する愛情の深さが、彼女の寿命を縮めたのかもしれない。 「母さん、聞いておきたい事があったんだ。」 和也は写真に語りかけた。 「お兄ちゃん。病院にあと三分早く着いたら、」 雅美(まさみ)の声に和也は振り返った。いつの間にか和室の入り口に、妹の雅美が立っていた。 「お母さんに最後のお別れができたのにね。タッチの差だったね。」 雅美が寂しそうに笑った。 「そうだな。あと三分早く病室に着いていたら、お母さんと話ができたかもな。」 和也は(うなづ)くと、数珠(じゅず)を置いて仏壇から離れた。  和也は一週間前、模擬試験で大手予備校の試験会場にいた。 午前中の試験が終了して、昼休みに携帯の電源を入れて雅美からのメッセージに和也が気づいた時は、着信から二時間以上が過ぎていた。 予備校の事務職員に事情を説明して慌てて病院に向ったが、和也は心の中で母親の最期を予感していた。母親の涼子が心臓発作で倒れたのは、今回が三回目だったからだ。 「本当はもっと遅かったんだ。」  和也は呟きながら、あの日の事を思い出していた。一週間前の土曜日を。 本当なら和也の病院への到着時間は、雅美の言う『タッチの差』ではなかった。もっと遅かったはずだ。だが、結果的に『タッチの差』になった。 和也の願いが通じたのだ。和也が病院に向う途中で、時間が停まったのだ。 そして、リバースが起こったのだ。
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